「東十二丁目誌」補解の補覚書:
回想の北上川

▪ 瀬音
私が小学生や中学生だった頃(昭和30年前後)の思い出…
夜中にふと目が覚めると、北上川の瀬音がかなり大きく近くに聞こえることがあった。
我家の西側5~600mのところを北上川が北から南に流れており、少し下ったところに浅瀬があった。その浅瀬を流れる水の音だと思うが、普段は聞こえない。水位の加減なのか、風向きのせいなのか、湿度とか気温が関係しているのかもしれない。妙に今でも耳に残っている。

寝室が2階だったのでよく聞こえたのだろう。2階の8畳間に母と子供2人が寝ていた。「川の字」は普通夫婦の間に子供を置いて寝ることを言うらしいが、我家では母を真ん中に両側に兄妹、「小の字」だった。父は隣の部屋で一人寝。

そして家の近くで鳴く梟(ふくろう)の声が聞こえることもあった。
  ノースケノッホー   ⇨[梟の鳴き声]
私にとって梟の鳴き声は何故か「ノースケノッホー」だ。梟の鳴き声の擬声語は、ネットで検索してみると「ホーホー」が一般的のようだ。当時島(「東十二丁目」の別称)やあの近辺では「ノースケノッホー」と言っていたのか、私だけの表現だったのか?

▪ 土左衛門
これも小学生の時の思い出。ある夏の日の午後、川の近くの畑で母の仕事の手伝い(邪魔?)をしていた時、「土左衛門が見つかった」と言う声が聞こえて、私達も見に行った。そして私は母にしがみついて、後から恐る恐る覗いてみると… パンパンに膨らんだ女の人が横たわっていた。和服姿だったと思う。何故か帯を締めていたのが記憶に残っている。多分入水自殺してここに流れ着いたのだろう。

川は子供たちの遊び場であったが、私には怖くて気味の悪い場所でもあった。川にはどこからでも出られるわけではなく、岸に低い崖があったり、ネコヤナギなどの茂みが続いていたりして、川に出られる場所は限られる。また出られたとしても遠浅とは限らない。急に深くなっていて危ないかもしれない。しかし怖く、気味悪く、危ない場所であればこそ、腕白小僧たちにとっては面白い場所なのだ。川に入り、次の岸に上がられる所まで、恐る恐る、しかしふざけながら川の中を歩いていく。水面は平らかでも底は急に深くなることもある。川岸の藪の中に山羊だか豚だかの死骸が引っ掛かっていたりもする。

▪ 水浴び
島の北上川には近所の子供たちがよく行く水浴び場 (川に入って泳いだり遊んだりすることを「みずあび」と言っていた) が3ヶ所あった。いずれも大人の見張りなどはいなかったと思う。
我家のあった荒屋敷の西方の岸は遠浅がやや広く拡がっていた。底は小石交じりの砂だったと思う。向う岸は高い崖になっていて、東から西へ川は徐々に深くなっていく。泳ぎの達者な連中は向う岸まで泳いで往復していた。私はやっと浮くことができる程度だったので、足が立つか立たなくなるところまで行くのがやっとだった。

そこから数百メートル南の堰(せき、農業用水路)の出口付近も水浴び場だった。こちらは砂とか小石の印象はない。泥が多かったか?ここはそんなに広くはなかったが、人数は一番多かったような気がする。ここでは溺れかけた記憶がある。岸からそんなに離れていたわけではないが、急に深くなって足をズルズルと取られた。岸に取り付こうとしてバタバタするが、なかなか近づかない…

一番北、長根の西の方の水浴び場は「舟場(ふなば)」と呼ばれていて、サッパ(小さい舟)が1~2隻繋がれていた。ここは岸からいきなり深くなっていて、上級者向き。私のような泳ぎの苦手な者にはチョッと怖いところだった。

子どもたちの水浴び場は川だけではない。川に流れ込む堰にも入って遊んだものだ。しかし水路には細長い水草が茂っているところが多く、水草に足を取られて思うように動き回れなかった。

▪ 舟場
子どもの頃には気にもしなかったと思うが、何故「舟場」と呼ばれていたのか、チョッと気になって調べてみた。
「花南の歴史・かわら版集録:郷土の歴史、再発見」(花南教育振興協議会編集、2001.09 同会発行)によれば:-
《大正時代から昭和13年ころまで、北上川に外台(とだい)と矢沢の島を結ぶ渡し舟があった。地元ではその外台の地を「舟場(ふなば)」と呼んでいた。年配の人たちは今でもその地を「舟場」と呼んでいる。その位置は、外台の北上川沿いの高圧線鉄塔の北、約200メートルの地点である。今と違って交通機関が発達していない時代であったので、島地区との交通手段としてよく利用されていた。昭和7年頃の渡し舟運賃は7銭であったと伝えられている。
なお、この渡し舟は矢沢の島の人たちによって運営されていたと聞く。…》

▪ 松尾鉱山
子どもの頃によく遊んだ北上川ではあるが、その流れは清流と言うには遠く、それ程酷くはなかったが黄褐色に濁っていた。川底には黄褐色の水垢(?)のようなものが沈殿していて、水中を歩くとツルツル滑るし、その水垢が浮き上がってくる。しかし大して気にすることもなく、親や先生に「川に入るな」と注意された記憶もない。

これは、後で知った事なのだが、岩手山の北方、今の八幡平市にあった硫黄鉱山・松尾鉱山の坑道排水が支川を経て北上川に流れ込んでいたためだった。石灰を投入して中和するなどの簡易な処理をしただけで放流していたのだろう。
この松尾鉱山は昭和47年(1972)に完全閉山し、坑道排水はそのまま川に流入する事態となり、大きな社会問題となった。そして紆余曲折を経て、岩手県により排水中和施設が建設された。この施設は鉱山の排水処理施設としては日本国内でも最大規模のものだと言う。2010年代に入ってからも24時間体制で稼働を続けているが、処理費用が年間5億円余りかかっていたとのこと。

▪ 橋
島とその北隣・高木(注1)に、現在では北上川に4本の橋が架かっている、北から朝日橋、朝日大橋、銀河南大橋、花巻南大橋。私が小学生の頃は朝日橋1本だけだった。
朝日橋:現在の鉄橋は昭和7年(1932)に完成した。延長268m、幅員6.6m。
橋の両端には背の高い堂々とした親柱が建っているが、私が子供の頃は大分傷んでいた。昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲で被弾し大きな傷跡が残ったのだ。花巻空襲は駅付近が中心だったのだが、製鉄所や米兵捕虜収容所のあった釜石への主要ルート上にある朝日橋も狙い撃ちされたのだろう。
朝日大橋:旧・国道283号のバイパスとして朝日橋の下流約300mの地点に架設された橋で、昭和57年(1982)に上り線完成。橋長475.8m、幅員10.5m。平成14年(2002)に下り線完成。橋長475.9m、幅員11.3m
銀河南大橋:国道4号線東バイパス上の橋で東十二丁目と外台川原を結ぶ。平成20年(2008)供用開始。橋長499m、幅員13.15m、
花巻南大橋:高松平良木(ひららき)から大沢トンネルを経て山の神に至る市道(旧・農免道路)上の橋で、昭和62年(1987年)に完成した。延長409.6m、幅員8.25m。
⇨ [9 現代 (戦後)]の第15節と(注4)参照

[補足]
(注1) 高木:正確には「高木の西部」。高木の北部、朝日橋の上流 2km 先に銀河大橋がある。国道4号線東バイパス上の橋で北上川と猿ヶ石川を渡る。しかし私の生活実感(?)では「高木」は朝日橋付近までだ。

(2024.3.31掲)

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