東十二丁目誌補解の補 覚書:
音坂佐藤家

私の家の本家を「音坂(おとざか)」という。東十二丁目では、明治維新前から続いている有力旧家の一つと言えるだろう。我家はその音坂の隠居分家で、「隠居屋」と呼ばれていた。
本稿では音坂の現在から数えて2代前の当主、素一(そいち)と3代前の当主、孝清(こうせい)について記す。素一さんは私の祖母の弟である。

素一さんについて、まず「稗貫風土記 第1巻 人物篇」(八木英三編 昭和26年4月発行)の記事を転載する。大東亜戦争とその前後を足早に駆け抜けた一人の男の物語…

佐藤素一 (矢沢)
 元県会議員佐藤孝清の長男である。大正12年盛中を出てから東京物理学校に学び、更に蔵前高工の窯業科を卒業したのが昭和2年であった。八幡製鉄所に入って耐火煉瓦の製造を担当していたが、父の居ない豪農の家は長年の空白を許さず、帰国を止むなくされて在職僅か2年で帰って来た。それから百姓をやりながら水沢農学校、花巻中学校等に教鞭をとること10年、此の間家事の整理も出来たので再び外遊の志を起し昭和13年満州に渡った。協和会の撫順地区本部で地方課長となり新京で経済部の事務官になった。
 16年帰国、村の助役や農業会長をやっていたが、この頃石原莞爾の高風を慕って東亜連盟に入り花巻分会を組織、北上支部に発展させて支部長となった。石原も佐藤を非常に愛した。彼は酒を吞まなかったけれ共佐藤にだけは必ずお相手をし、不治の病魔に襲われてからも病床の前で独酌させた。そして石原の臨終までそれが変わらなかった。東亜連盟の仕事の核心は農業の改革にあったけれ共、戦後右翼団体で追放を受けた為に佐藤も一切の公職から手を引いて(注1)専門の窯業に立戻り瓦工場を経営している。
 一子相伝の鯨飲振りで役場の助役在勤中
 「おれは何も不正はしていないが配給の酒を盗むことだけは常習犯だ。これは祖先伝来の家風である。この善良なる家風はあらゆる犠牲を払っても守護し抜かなければならない。村民諸君もこの点は大いに了とせられる所だと信ずるが、不平ならば何時なりとも我輩を告発し給え。」
とどなるのであった。果たして村民は之を了としたものと見える。追放となって公職を退くや、人皆彼を惜しんでその解除の日を一日千秋の思で待つものの如くである。 》

石原莞爾が亡くなった後、火葬の場であろうか、素一さんは彼の遺灰を呷(あお)った、と昔聞いた憶えがある。
同じ八木英三の著作である「花巻市制施行記念 花巻町政史稿」(昭和30年1月発行)にも「佐藤素一」の項が立てられている。前掲の記事と重なる部分も多いが敢て全文を転載する。

佐藤素一
佐藤素一は往年矢沢村農協の組合長であり矢沢村の助役であった。村民の多数から将来の村長を以て嘱目されていたが、戦時中東亜連盟の支部長であったことが禍して公職から追放される身分となり、今は黒沢尻高等学校の教員を勤めている。
 彼は矢沢村では「音坂」と称する豪農であり父親の孝清は県会議員であった。盛岡中学校では宮沢史郎、北山愛郎と同級生であり、東京物理学校(現東京理科大学)と東京高等工業学校(現東京工大)卒業というインテリである。而もよく酒をたしなみ興至れば徹宵(てっしょう)痛飲して国事を罵る論客である。
 農地法の改革は彼を五反百姓の列に陥れ、五斗米(ごとべい)のために教職を選ぶの止むなきに至らしめたけれ共、志は常に天下国家にあり中将石原莞爾を敬慕してその最後の病床を護ったひとりである。
 彼は昭和13年満州国に渡って協和会に入り撫順地区本部で地方課長となったが、後役人になって経済部に身を置いた。然るに豪農の家の一人息子であり父を失った体が長く外地にあることが許されず16年に止むなくまた矢沢村に帰った。彼が農業会長となり村の助役となったのは此時である。
 石原莞爾の東亜連盟の真の目的は日本の農業の革新であり、彼は連盟の支部長としてその方面の仕事に没頭しようとした時に公職追放がやって来たので継続することができず、彼自身もルンペンの生活を持たねばならぬことになった。彼個人の生活はルンペンであるけれどもその抱負を了解して集まる青年も有志も少なくない。来年春の県会議員の改選には恐らく立候補するものと思われる。
 彼は教育者としても長年の経歴があるしその高風を慕い寄る門弟の数も少なくない。そして拡大された花巻市の農業部門では彼は偉大な存在である。湯本農協会長の高橋貞雄、八重幡村長の佐藤徳右エ門は往年からの同志であり、農村インテリの先輩伊藤専一は今は病躯立つ能わざるに至ったけれども彼の立候補をきけば何等かの風雲を巻起こさぬものでもない。金子定一は満州時代の思想的大先輩である。そして花巻市と合併になった矢沢村内において「音坂」の潜盛力は所謂ダークフォースとして存在する。現在花巻から選出されている県会議員は三田勇治、箱崎文弥の両名であり、次の選挙には両名共に再起するであろうが佐藤の存在も無視することが出来ない。地方政界覚醒のために意義多い存在である。 》

素一さんはその後県会議員を1期務め、昭和39年逝去、享年 60。
素一さんの父・孝清(こういせい)についても「稗貫風土記」は記す。

佐藤孝清 (矢沢)
矢沢村では佐藤、高橋の両家は同族らしくその総本家は現在更木村の高橋武夫(注2)がそれらしいという。佐藤孝清の家も今の音坂に分家したのが150~60年の昔で、5代の先祖から島部落の肝入をしていた。孝清の時には資産も村で屈指のものになっていた。12歳の頃から家を出て盛岡の尋常中学校などに学んだこともあるらしいが、何時の間にか東京に出て和仏法律学校を卒業、判事の職についていた。これは今の法政大学の前身で郷土の先輩熊谷綱介、松川他次郎などもここを出ているのは校長の菊池武夫が本県の先輩だった為であろう。
父が死んだ為に止むなく帰村、村長などもしていたが宮野目の阿部勇治の政治力に惚れ込みその傘下に走って矢沢村の同志会を組織、自分も明治44年から大正7年まで2期間県会議員であった。当時大津鱗平知事の時代で、この人の蛮骨振が気に入ったらしく政党政派を超越して県の為に尽力した。今の赤十字病院の創立などには特に活躍したようである。
 大酒家であった。酔えば夜を徹して政治を論じ客は代れど主人は変わらず幾日に渉ることが少なくなかった。それかあらぬか52歳の短命で大正13年に逝去した。 》

[補足]
(注1) 公職追放
:重要な公職から特定の者を排除する処置。昭和21年(1946) 1月に出されたGHQの覚書に基づき、軍国主義者・国家主義者を国会議員・報道機関・団体役職員などの公職から追放し、政治活動も禁じた。同27年サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅。
(注2) 高橋武夫:朝鮮・満州両銀行の役員として満鉄(初代総裁後藤新平)や関東軍と密接な関連を取りながら腕を振るった矢沢村出身の人物が居たことはあまり知られておらず…
その人物は高橋武夫、明治21年12月12日、東十二丁目、高橋久平の長男として生まれた。
 小学校はなぜか隣接の和賀郡更木尋常小学校、二子小学校でありここから盛岡中学に進学、さらに東京の旧制第一高校へ進んだ。当時の一高校長は新渡戸稲造である。
 42年9月、一高を卒業した高橋は東京帝大法科経済学部に入学した。
 矢沢の一農家の生れで盛中、一高、帝大と学問のトップクラスを歩んだ経歴は当時としては驚嘆に値することで、本人の実力は当然ながらその裏には祖父宇右エ門の限りない支援があったといわれる。
(「われらが郷土 矢沢の里の歴史と遺産」(2002.12 矢沢地区観光開発協議会発行)より)

(2024.5.31掲 / 6.8改)

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