利根運河のビリケンさんと新四国八十八ヶ所

私鉄・東武野田線(現在では「東武アーバンパークライン」と言うらしい)は大宮から柏を経て船橋に至る路線で、その途中、大宮から小1時間程の所に運河駅がある。「運河」とは変わった駅名だが、これは駅のすぐ北側を東西に流れる利根運河に由来する。

本稿は利根運河にまつわる「ビリケンさん」と「新四国八十八ヶ所」について紹介するものだが、先ずはその前置きとして「利根運河」について概観する。

■利根運河
…江戸時代後期頃より、野田から関宿にかけての利根川には土砂の堆積が進み、浅瀬ができて、船の運航に支障をきたしていました。特に冬は水量が少なく、2週間も船が動かないこともありました。明治に入ると増大する物資の輸送に対応するため、利根川と江戸川を運河でつなぐ計画が持ち上がります。オランダ人ムルデルの監督のもと工事が進められ、明治23年には全長8.5キロの利根運河(とねうんが)が完成しました。しかし運河の隆盛は長くは続きませんでした。鉄道の敷設が進み、貨物輸送が水運から鉄道へと移行するに伴い、通船は減少の一途をたどります。運河は洪水や土砂の浚渫に悩まされながら、ついに昭和16年、台風による洪水で破壊され、運河としての役割を終えました。現在は洪水調節水路となり、水辺が親水公園として整備されて市民の憩いの場になっています。周辺に広がる湧水池や里山等、豊かな自然環境も注目されています。平成18年度に選奨土木遺産に認定されました。
      ([利根川水運と関宿水閘門(せきやどこうもん)・利根運河]より)

利根運河について(利根運河交流館)
(目次:利根運河とは / 江戸と北海道・東北を結ぶ船の道 / 江戸時代から明治初期の航路 / 利根運河建設に向けての動き ~着工から完成まで~ / 利根運河の完成と産業の発展 / 運河としての役割を終える / その後の利根運河)

■ビリケンさん
運河駅を降りて運河橋を渡った駅の反対側の運河沿いに「ビリケンさん」と呼ばれる奇妙な像が建って (座って?) いる。隣の説明板に次のようにある。

利根運河ビリケンさん
ビリケンさんは、「幸福の神」としてアメリカで生まれ、明治42年(1909)頃に日本に伝わり流行しました。利根運河株式会社の総支配人・森田繁男氏<(注1)は利根運河地域の繁栄を願い、大正2年(1913)5月に利根運河ビリケンさん(石像)を建立しました。
平成30年(2018)に破損を受けた際、不在を知った大阪通天閣より修復を施す間の留守番役として金色のビリケン像が寄贈されました。この縁から「西に通天閣の金色ビリケンさんあれば、東に利根運河の銀色ビリケンさんあり!」との想いで、二代目利根運河ビリケンさんを銀色の錫(すず)で鋳造、建立しました。(現在、初代は市立博物館に展示)
      令和3年2月      流山市観光協会   》

[流山市] 4体のビリケンさん、石造りの初代は日本最古!?
   (目次:なぜ流山にビリケンさんがいるの? / 足をなでると幸福が訪れる)

ABOUT BILLIKEN ビリケンさんってそもそもなんなん?

ビリケン (「フリー百科事典 ウィキペディア」)  (英語版 ⇨ Billiken )
   (目次:概要 / 通天閣のビリケン像 / 日本各地のビリケン像 / アラスカや極東ロシアの伝統工芸への影響 / ビリケンにちなむもの / ギャラリー)
   英語版 (目次:歴史 / スポーツマスコット / アラスカ / 日本 / 外部リンク)

新四国八十八ヶ所
「ビリケンさん」を追ってネット上を彷徨(さまよ)っているうちに、流山市観光協会のサイトに次のような文面を見付けた。
《利根運河のビリケンさんは、利根運河の水運と治水に尽くし、観光と美化発展に力を注いでいた利根運河株式会社の支配人であった森田繁男氏により、大正2年(1913年)に「新四国八十八ヶ所霊場」の開設とともに建立され、以降、地元の人たちに親しまれてきました。》

「四国八十八ヶ所霊場」は何となく知っているが、「新四国八十八ヶ所霊場」とは何なのか?調べてみると本家「四国八十八ヶ所霊場」にあやかって各地に設けられた本家の縮小コピー版みたいなもののことを言うらしい。「写し霊場」などとも書かれている。利根運河周辺のそれは「利根運河大師」と呼ばれている。
以下に「利根運河大師ガイドブック」(注2)から抜粋・引用する。

利根運河大師全体図 (拡大表示できます)

《 江戸の中期から、東葛飾の農家の間で四国八十八ケ所霊場巡りが流行した。四国への交通手段が不便なこと、八十八ヶ所を徒歩で巡拝すると40日ほどの日数がかかるので、誰でも簡単には行けなかった。そこで、「本家」になぞらえた「分家」が、各地に次々に誕生した。 『下総のへんろ道』(小林茂多著、平成11年自費出版)によると、東葛飾地域に誕生した「新・四国八十八ヶ所」は、70ヶ所を越える。

運河大師の応募要領
「新四国八十八ヶ所利根運河霊場」もその一つで、森田繁男を筆頭とする44人の世話人が名を連ねた『利根運河霊場創建趣旨』には、「偉大ナル大師ノ弘徳ヲ普及セント欲シ先ヅ尊像八十八体ヲ運河沿岸二建立シ併セテ大師堂ヲ運河果園内へ建設シ以テ弘道ヲ説キ衆生済度スルノ便二供セントス」(原文のまま)と述べ、次のような応募要領を載せている。

① 尊体建立の場所は予め目標を以て指定する事
② 尊体は一人数体又は数人一体を建立するも寄付者御随意たる事
③ 尊体建立引受番号は申込書に明記し他建立者と同番の重複せざる様注意の事
④ 尊体の格好敷地の体裁等は寄付者の適宜に任す事
⑤ 尊体は見易き箇所へ寄付者の姓名を録し永世の鑑と為されん事
      大正二年一月吉日   》

弘法大師生誕1250年記念 「利根運河大師めぐり」 資料 2023.4 (注3)
         (NPO法人流山史跡ガイドの会)
   (目次:弘法大師 / 利根運河大師の歴史)

大師堂全景(拡大表示できます)

[補足]

(注1) 森田繁男:明治元年(1868)~昭和4年(1929)。群馬県生まれ、旧姓高畠。前橋師範学校卒。小学校教員を経て、朝鮮・満州に渡るが帰郷。明治29年(1896)利根運河株式会社(明治20年(1887)~昭和16年(1941))に入社、同社支配人(在任期間不詳)。森田果樹園経営。
県議会議員(大正2年(1913)~4年、6年~13年)、政友会に属す。新川村(現・流山市の北半)村長(大正13年(1924)~昭和3年(1928))。
趣味は銃・刀剣・掛物・道具等骨董品の収集・盆栽・旅行など多彩。

(注2) 「利根運河大師ガイドブック」:平成15年(2003) 利根運河大師護持会編集・発行、新書版 198pp
(目次:利根運河大師順路図 / 大師様のお顔拝見 -写真で見る運河大師- / 利根運河大師ものがたり 大正2年~平成14年 / 札所ものがたり / 利根運河大師のお寺)

「大師様のお顔拝見 -写真で見る運河大師-」の章には、89ヶ所各札所の石像の写真に御詠歌が添えられている。御詠歌とは懐かしい! 昔子供の頃田舎の家で聞いた記憶が微かに残っている。
  ⇨ 第1番札所 御詠歌

(注3) 弘法大師生誕1250年記念 「利根運河大師めぐり」資料 2023.4
当地の新四国八十八ヶ所設置の先駆者であり志半ばで他界した秋元吉平について、本資料中に言及があるが、「利根運河大師ガイドブック」((注2)参照)の「第七十六番札所」に詳しく述べられている。また「流山市史 近代資料編 新川村関係文書」に「願主 秋元吉平」と記された「八十八ヶ所建設緒言」と「八十八ヶ所建立の主意」が収録されている。

(2024.8.8掲)

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