照井亮次郎

ここ半年ばかり照井亮次郎についてあれこれ調べています。
ことの発端は盛岡に住む旧友S君からのメールでした。
「こんにちは! 照井亮次郎の生家 北上川の東岸、花巻市長根とあるけど、どの辺かな? 昭和59年3月16日母屋一棟消失したようです。」

そして私の返事
「長根の高島道路ぞいに金比羅神社があり、その南側の空き地が焼けた家のあったところです。そこにはかつて秀(しゅう)さんという女性が一人で住んでいましたが、火事のあと失意の中で亡くなったようです。

私の記憶に残っているのは、彼女の家には猿がいて、ちょっと変った家だったということ。子供の頃猿を見るためだったのか、時々遊びに行ってました。

母に電話で聞いたところでは:
秀さんはメキシコに行った人(亮次郎?)の娘か姪。台湾で教師をしていたが、戦後帰郷。その時猿や珍しい動物を持ち帰ったらしい。お花の先生などをして一人で暮らしていた。一生独身。…

最近つくづく思うのですが、身近に色々な人がいたのに、何も知らずに年を重ねてしまいました。若い頃に知っていれば、感化されるところがあったかも知れないのに。知る機会のなかったのが残念!!!」

彼のメールを読んだ段階では照井亮次郎について全然覚えがなかったのですが、手元にある「東十二丁目誌」を見ると、載っていました。「拓殖家 照井亮次郎」と題した8行の紹介記事が!!!

亮次郎

拓殖家 照井亮次郎
(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28) p.379より)
氏は東十二丁目の人、照井亮蔵氏の次男、明治7年6月9日に生まれた。幼少の頃から既に覇気に富み且つ活発な個性を持っていた。小学校を卒業してから宮城県立農学校に入学し、同校卒業後一年志願兵として軍隊生活をなし、24歳の時、当時の外務大臣榎本武揚がメキシコの一部の地を租借し移住民を奨励していたので、氏は再三渡墨を請願し終に許可を得、渡墨後幾多の困難、数多の辛酸を嘗めて日墨協働会社の基礎をつくり、以後之が経営に尽力して巨万の財産を有した。

氏の行動は正義を基とし、日墨両国の幸福発展を計り墨国民からも非常に信頼されていたが、これは氏の人格の偉大なことを物語るもので、海外の紹介につとめていた我が国の雑誌にもしばしば氏の写真を揚載してその人格者であること、成功した人であることをほめたたえていた。

[補足] 「巨万の財産を有した」とあるが、次に述べる「シエラマドレの熱風」などを見ると、「巨万の財産」という程のものではなかったようです。

亮次郎
1905年に設立した日墨協働会社経営の農園で。右端の子供を抱いているのが亮次郎。1910年頃。(日墨協会所蔵)

亮次郎の一生を詳しく紹介した書籍として、
川路賢一郎著「シエラマドレの熱風(かぜ)  =日・墨の虹を架けた照井亮次郎の生涯=」(2003.3.24 パスコジャパン)
がありますが、現在では入手困難と思います。
図書館でも、地元の図書館とかメキシコ・移民関係の図書館以外で置いているところは少ないでしょう。

ネット上にはこんな記事があり、亮次郎について要領よく紹介されています。
「最初にメキシコに渡った二人の岩手県人」
http://fuzoku.cneti.ne.jp/e_108.html
 http://fuzoku.cneti.ne.jp/e_109.html

(2014.4.29掲)

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