-「島小学校100年史」(S48年11月3日 島区民会発行)より-
▪ 沿革通史
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昭和22.3.31 教育基本法、学校教育法の公布により6・3・3・4制度となり、小中学校を義務制とし9カ年となる。
(中学校は昭和22年4月、小学校と高等学校は昭和23年4月、大学は昭和24年4月からそれぞれ発足した。)
小学校の教科目は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画、工作、家庭、体育、自由研究の10科目となる。
昭和23.3.31 矢沢小学校島分校を廃止し、独立島小学校となる。
昭和23.4.29 島小学校開校式を行う。
昭和23.8.3 校舎2教室50坪増築
昭和27.3.1 給食調理室(10坪)開設す。
昭和27.3 講堂(84坪)新築
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特色ある学校経営 ―成果を讃えて―
健康教育の実践
昭和25年の定期身体検査は、全国平均に比較して、身長、体重共に劣っていること、また呼吸器系統疾患も9名を数え、その対策が急務であることを示したが、これに対して学校が取組んだ大要を当時の記録から摘記してみたい。
一、部落の環境と実態
学区は純農村で生活状態は中以上、否むしろ上というところです。要配給世帯は殆んどなく、両親の体格も他に比較して決して劣っていない状態で、その原因を家庭の協力を求めて調査しました。その結果
第一には、田と畑が殆んど半々で、これを耕作するために毎日が非常に多忙の連続で、妊産婦も健康な人と同じょうに働らかなげればならず、朝から晩まで、一生けんめい働くそのために労働が量的にもまた質的にも過重であること、それに対して栄養補給の面は逆に食糧は単調で、休養も充分にとることができないため、母体における胎児は発育も不十分であり、生れて来る以前に体位が既に劣っているという事実。
第二は、生れてからも、産婦の労働が過重な為に哺育に充分な栄養と育児の世話に手が廻りかねるので、結局不規則な哺乳が行なわれ、一時に多量に与える関係から、胃腸障害を起すことも少くないので、就学前の育児に遺憾な点のあること。
第三には、朝は夜明け以前から働き、夜は星をいただいて帰るため、児童も自然朝は早く起され、夜は夕食がおそいので夕飯を待ちきれずに就眠してしまう結果、食事を欠き勝ちなことは勿論であるが、睡眠時間が非常に少ない(大人は午睡をとるが児童にはそれがない)また蛔虫による栄養障害があると云う事が分った。
本校児童の睡眠平均時間は、全国平均より約2時間程度不足していた。
二、午睡と給食の実施
午睡は日の長い時にあり(6月から9月) この時にこそ農家は忙しい中にも午睡をとっているから、児童にもそうしたことをやらせる必要があり、学校では昼食及び給食時間、午睡時間を含めて2時間をとって実施した。
また仕事にまぎれ栄養補給がうまく出来ない、その足りないところの脂肪、蛋白、糖分などの補給のため、脱脂粉乳等の配給をうけ25年の12月1日から学校給食が開始された。
最初は使丁室を使用してやったが、婦人会の協力もあり、26年には完備した給食調理室も完成した。給食費は1ヶ月45円、その他 薪、野菜等は児童から徴集、この45円で1ヶ月に、ミルク、魚肉、獣肉、豆腐、海藻類、食油、調味料 その他の経費に充て、これを月々給食していたが、昭和32年9月20日から、学区民によって完全給食をすることになった。
[余談] 昼寝:昼寝の時間になると、机を教室の後ろに押しやり、寝る場所を作った。敷物などはなしで床の上に直に横になったと思う。昼寝の時の先生方の苦労が後述の座談会の中で語られている。
[余談] 脱脂粉乳:戦後給食の中で脱脂粉乳はとりわけ人気のない飲食物だった。私は何とか食していたと思うが、どうにも我慢ができない子がいてこんな事件があった。
給食係に無理強いされたのか、我慢が出来なくなった子が教室を飛び出して、校外に脱走してしまった。給食係などが連れ戻すために追いかけて行った。その顛末がどうなったかは記憶に無い。連れ戻され、冷めた脱脂粉乳を無理矢理飲まされたのか…「冷めた」脱脂粉乳は一段と不味い。
三、健康管理
健康教育の目標達成のために、次のようなものがとりあげられ実施された。
1、定期身体検査及び臨時身体検査により、結核及び養護児童の早期発見と診断
2、毎月の身長・体重測定施行
3、児童のDDT撒布と整容検査
4、午睡と学校給食の実施
5、保健体操と乾布まさつ
6、朝の健康かんさつ
7、夏季、冬季休業の生活指導
8、運動選手及び陽転者の指導
9、疾病の処置と一日の生活
実施の結果は省略しますが、すべての面にわたって向上し、目標の達成に大きく前進したことは特記されるところです。
[余談] 東十二丁目の人口:昭和20年代には人口 1,300人、世帯数 270程度だったようである。
[余談] 助教諭:新制度のもとで小中学校有資格教員不足を背景に、従前の代用教員と新制高校卒業生に対して臨時免許状が付与され、小中学校教員(助教諭)として採用された。当時の島小学校で助教諭の一人は農業高校(旧・農学校)を卒業したばかりの若者だった。
島小学校勤務職員一覧(昭和23~30年度)
児童会の歩み
島小学校児童会の歴史を昭和23年度よりふりかえってみますと、学校行事の各月計画のすぐ下に、児童会行事が書かれ、その下に生活指導研究会行事、PTA行事とつづいて書かれています。それは『現職教育年間計画』に示されており、当時の児童会計画が如何に熱の入った実践をしたかという事と、児童を大事にした教育であったかは、一目瞭然と分かる訳であります。特に昭和31年度は、部落体育会が催され、児童が部落に於いても、楽しく行事に参加するという組織が学校で計画され、地域で熱心に協力して夏休みの、生活指導もあわせて、『きまりを守り、みんななかよく、くらしましょう。』というめあてで実践されています。昭和30年学校行事で、異色として注目されることは、5月下旬、校外児童委員会を開催し、農休の反省会をして居ることです。これは農休生活について真剣に話し合い、勤労精神の育成を計り、家庭のお手伝いが、如何に熱心に計画され、実行され、そして反省されたかがよく分かりますし、島小学校が、如何に地域との密着した教育をしていたかが窺われるところです。その頃、討論会をも計画していますが、話し合いに於ける自主的参加の養成に役立てていたと思います。つぎに各年度の運営の主な特色を摘記してみましょう。
[余談] 田植休み(農休):田植えの最盛期に1週間弱の全校一斉休暇があった。秋には稲刈り休みもあったが、その代わりに夏休みと冬休みが短縮された。
◎昭和三十年度
○組織の概略
東岡会 校内児童会 校内委員会 生活部 係(整備係、購買係、規律係)
文化部 係(ニュース係、図書係、学習係)
保健部 係(衛生係、給食係、運動係)
学級児童会
校外児童会 校外委員会 班(上組、小袋、中道、二津屋、穂貫田、下組、 荒屋敷、長根)
○役員
校内児童会 会長1名、副会長2名、書記2名、部長3名、係長9名、学級代表若干名
校外児童会 会長1名、副会長2名、書記2名、班長8名、副班長16名
○会費 1人1月5円(校内校外活動に支出)
○PTA運営の概況(児童会に関するもの)
事業内容 校外児童会活動の指禅と援助
役員 部落委員(組から3名)24名、給食委員(組から1名)8名。
○予算を校外児童会にも支出し活動に供したことは、当時の活動が、部落児童会の方面にも力を入れて教育されており、学校との両面指導が行きとどいていたものといえます。
[余談] 20年代の児童会:「島小100年史」には30年度以降の児童会運営について記されているが、20年代後半も同様の運営であった思う。
◎昭和三十二年度
「我が校の部落児童会」の計画で活動の領域に
①文化部(教科外学習面)写生会、展覧会、子供会、見学学習、おさらい会等。
②体育部(保健体育面)早起会、遠足、体育会等。
③奉仕部(生産、生活面)公共施設の清掃美化奉仕、山菜等の採取・販売、生活環境の改善等。
○当時、山菜等戸別に売り歩き、その得た金銭の使途について考慮したり、年度末慰労会(かさこし)のしかたについて、いずれも、金銭の使途の計画を留意していた頃です。
又夜まわりとその慰労についても苦慮した頃でもあります。校内に於いては、週番を3年以上、毎週18名位で活動しています。
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[余談] 部落児童会の思い出:部落児童会は小部落毎の8班に分かれていたが、私は「荒屋敷」班に属し、同級生が12名いた(多分)。行事で記憶にあるのが春の「柴刈り」と秋の「田螺(たにし)採り」。
春、雪が消え草が繁茂する前の山に入って柴木を集め、それで作った柴箒を小部落内の家を廻って買ってもらった。最後はその売上の一部で肉を買い、カレーライスを作って野外慰労会。
秋は「マンケェ」と呼ばれていた低地の田圃で田螺採り。当時は「田螺」を「ツブ」と呼んでいた。こちらも田螺を売って、最後は慰労会。「マンケェ」は「満海」と書くこと、満海の田螺には古い伝承のあることを知ったのは、あれから半世紀以上も後のことである。(注1)
座談会 島小を語る
と き 昭和48年4月22日
ところ 矢沢中学校島校舎校長室
出席者 …
司 会 石崎直治
《押切 …これから島小学校に長年勤務下さった先生達を中心に、雨にぬれる桜を眺めながら、当時の思い出など心楽しく伺わせていただきたいと思います。どうぞよろしく。
司会 島の教育100年の歴史を大きく3つにわけて編集が進められています。…そして第3回は今日の集まりで、昭和23年島小学校の独立から現在までの間について、回想を語っていただくことになっています。…
ではまず、学校の行事を中心に思い出をたぐっていただきましょう。
古川(栄) 島小独立の年の運動会は5月、創立記念の文化祭は11月農産品評会といっしょでした。恒例の4月29日(運動会)は少し後からではなかったかな。
古川(篤) 私が着任した2-3年目あたりに、29日にきめた方がよいということで始めたようだったですね。
古川(栄) 27年頃から午後は部落の運動会というのがはじめられたが、其の頃は生徒数も200人以上で仲々見ごたえがありました。PTAも売店を開いてました。
古川(正) 開校式はいつだったかな、私が祝辞をのべに来たことを覚えている。
司会 修学旅行は其の頃どうでしたか。
古川(篤) 五年と六年がいっしょで、海浜学校と交互に隔年実施でした。
古川(栄) 海浜学校を開設したのは、たしか27年で、子ども達はたった8人だったが根浜海岸に行き、家族的なムードでたいへん楽しかった。お母ちゃんとよばれたのが昆野先生、お姉ちゃんが照井先生、私はお父さんとよばれ、こわれたストーブを借りて、いぶしいぶし御飯を炊いたり、その時の写真はこれでこんなに沢山とってますよ。
その時一人迷子が出てうんと心配させられた。みんなでいくらさがしても見当らない、1時間ばかりしたらひょっこり掃って来た。聞いてみたら貸ボートがあってよその人が乗るのにいっしょに乗せられてきたというのには一驚しました。
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古川(篤) 25年頃から自主的にPTAが廃品の回収や映画などして、その利益が学校の設備に寄付され、学校の行事も楽しくできた。
古川(栄) 23年頃は、ここの青年達(青年会)の演劇活動も盛んで子供たちの舞台を使っての発表もあった。けれどもそれだけではどうにもならないというので興行をもってきて、その純益が学校の備品に変った。
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[余談] 映画会:年に何回か開かれたと思うが、夏には戸外で行われた。校庭に立てられたスクリーンの裏側から映画を見て面白がったり、寄ってくる蚊に閉口したり…
見た映画で記憶にあるのが「山の彼方に」、石坂洋二郎原作、池部良主演。その中に違う(?)中学校の生徒たちが石を投げ合ってけんかする場面があった。…そして島小学校の悪ガキ達がそれを真似て、学校の帰りに沼の傍の坂で女の子達が通るのを待ち伏せ、石を投げたかまでは憶えていないが、悪さをしたことがあった。そして後で先生にひどく叱られてしまった。
[余談] 演劇公演:演じられた劇の演目などは全く記憶にないが、憶えているのが舞台照明の調光。会場の後に塩水の入った金魚鉢みたいなガラス容器が置いてあって、舞台照明用のライトに通じる電源コードの片側を切断し、切り離した両端を塩水に差入れ、その間隔を変えて照明の明暗を調整していた。
70年以上も前の話、妙なことを憶えているものである。
司会 話題を校内生活にかえて見たいと思います。島小の昼寝も有名でしたが。
古川(篤) 島では農家が多いのですから、朝起きが早い。昼寝するから夕飯もおそい。そこで学校であくびばかりしている。早く帰しても駄目だから学校で昼寝させようということになった。村田校長さんの時でした。
古川(栄) よその学校にくらべると、格別に小さい。ねる子は育つと云うが、島の人達はあまりによく働くので、子ども達のねむる時間も少い。ねないから育たないのではないかというので調査してみた。そしたらやはり8時間位しか眠ってなかった。もうひとつ給食も此頃から始めた。ねせることと食う事が健康上大切ということだった。給食費は副食給食でしたので始めは月20円位、あたたかい味噌汁でたいへんに喜ばれたものだった。野菜も薪も労力も持ちより、3人位宛順番にPTAのお母さん方がエプロン姿で奉仕、小使さんのところで調理した。この写真は25五年頃のです。喜んでいる子ども等の顔を見て下さい。
古川(篤) 其の頃婦人会長は佐藤サエさんで、丼や皿もそろえて下さったり、いろいろと世話をしていただいた。
古川(栄) 昼寝のはじめた年は,押えるのにずいぶんと目にあった。休んだ先生でもいるものならそっちに行くとこっちがさわぐ、逃げたり、かくれたりする子もいたし、でも二年目からばなれてよくなったが。
小林 32年からは完全給食になっていますね。
古川(栄) 裸体操もあった。昼の時間裸で校庭にとび出し体操をした。これらは健康教育という一連の流れで行ったものだった。
司会 珠算や習字それに音楽など、特色ある存在も多くあったではなかったですか。
古川(栄) 珠算をはじめてから1年たっかたたない時に珠算大会があり、29年2月に第3位をとった。同じ頃卓球も郡下小学校の大会で優勝している。
古川(篤) 放課後は先生達も毎日体育舘に出て子ども達といっしょに遊んだものでしたものねえ。
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古川(栄) 学校の宿直の時は、子どもたちはトランプなどをもってよく遊びにきた。夜明かしみたいにおそくまでさわいだことも今にして思えば懐しい。
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[補足]
(注1) 満海と田螺:⇨「3.1 満海坊」、⇨「5 近世」の「第13節 照井沼の田丹し」
(2023.5.9掲)