(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)
「村里は用地の開発により、用地は用水による」と云われるが、開拓の歴史を考える時、郷土の先人達が多くの困難と戦いながら、工事と取組み、築造し、管理し、修理を重ねながら長年代々にわたって受継がれて来ていることがわかる。
私達の村落は、北上山系と北上川の間に存在する集落であるが、南端にある猿ヶ石発電所から山麓にそうて北に進む時、2~300m間隔位に山から沢水が流れ落ちていることに気がつく、そしてそれぞれの沢には小さい俗に山田と称される不整形の水田が棚田となって耕作されている。その沢を登ると大ていはそこに昔使われたであろう堤が確認される。
勿論大あり小あり、水の貯えているもの、水がなく樹木の生えているもの等様々であるが、かつては重要な水源として築造されたものには違いない。
昔時北上川は山麓を流れ、時代と共に西方に流路が変更し、ここに堆積された肥沃な耕地ができ、住居の移動や田畑が開発されムラが形成されるようになり、産土(うぶすな)の神を祀り、米の生産も盛んに行われるようになったものであろう。
高木村、東十二丁目村、更木村は共に北上川に接する地でありながら流れの水を灌概に利用できず稲作りが困難であった状況に着目された更木村金栗の平野仁兵衛氏は、自己の資産と財を投じこの事業にふみ切り着工3ヶ年の歳月を経て元禄14年完成したものであり、仁兵衛堰と云われる(注1)。…
[補足]
(注1) 仁兵衛堰:東十二丁目ではいつの頃からか「大堰」と呼ばれています。
(2015.2.22掲)
「東十二丁目の水利 – 堰以前 –」への1件のフィードバック
コメントは停止中です。