箱圭・箱文 – 花巻町長選挙物語 –

(八木英三著・発行「花巻市制施行記念 花巻町政史稿」(S30.1.25)より)

昭和8
町会選挙
昭和8年(1933)は梅津町長が第3期の任期を終る年だがその4月27日に花巻両町合併後第2回目の町会の総選挙が行われた。24名の定員に対し3名超過の27名の競争となり左の通り当落があった。
 154 照井謙治郎  153 佐藤金太郎  131 平賀干代吉
 125 橋本喜助  125 阿部円蔵  118 箱崎文秀
 116 佐藤伊惣治  116 伊藤直治  111 金矢政蔵
 110 瀬川松次郎  110 宮沢直治  109 佐藤忠治
 107 松田忠太郎  100 高橋金太郎  98 松田徳松
 98 高瀬新太郎  98 島理三郎  96 阿部弥太郎
 96 伊藤弥太郎  94 小原政治  84 藤山清吉
 80 小瀬川貞次郎  74 菅原重信  74 宮沢重次郎
 次点 73 松岡守一  56 菊池一郎  22 戸田弥兵衛
この選挙は非常に激戦であったと同時に意外の番狂わせが見られた。第一の意外は最高得点者154点の照井謙治郎であった。彼は町会の新顔であって初当選である。今までは藤山清吉の応援をして縁の下の力石となって働いて居た一介の青年に過ぎない。初めて立候補を声明した時には当選さえも疑われて居た人物だ。

今度の選挙では衆目の見る所佐藤金太郎(注2)が最高と予想されその得票は200票を下るものではないと考えられて居たのである。それが153票で第二位となりただ一票の差ながら青年照謙が第一位を得たのである。世間がアッと驚いた。佐藤金太郎は通称丸三で通っていた。花巻町会では飛ぶ鳥を落す程の勢力家である。ここに丸三を尻目にかけて第二位に落した一介の青年の現われたということは何か時代の緊迫化を持たせるものがあった。…
梅津町長の第一期から「丸三兄弟」の町会に於ける勢力が大きいものであったが花巻両町合併後は特に著しくなって来た。丸三兄弟というのは佐藤金太郎と佐藤金次郎である。兄金太郎は八方美人で人ざわりが非常によく事を解決するのに円転活脱、旧花巻町の佐藤伊惣治、松田忠太郎、県会議員の先輩高瀬新太郎等を懐に抱えて難局を切開いて行くのに妙腕を持って居たから自然に町会の重心となったのであった。弟の金次郎は反対に往々にして暴力を振い横車の押通しであった。彼は町会議員でもなく公職というものはただ一つ烏谷ヶ崎神社の氏子惣代というものを持っていたにすぎないが、大正末年から昭和の始にかけて烏谷ヶ崎神社の改築運動を起し町の戸数割に割当てて寄附金を強制微収した。これには町内に異論もあって神社の完成までに3年を要したが兎も角も今見る様な拝殿を建築した。…

さつき会の誕生 町会選挙の直後の5月14日に10人ばかりの町会議員とその仲間の有志と合計20人余の会合が豊沢川縁の𩸽簗(?ママ、ほっけやな)で催された。小原政治が会長格、副会長が佐藤忠治、幹事長が照井謙治郎という所であった。さつき晴のよい天気で野天の下で呑む程に食う程に皆大元気となり「我々はこれを機会に町政改革の為に町会議員の団結を造ろうではないか」と発議するものがあった。皆大賛成で即座に「さつき会」と命名されたのである。
その後これ等町会議員の連中が鳥谷ヶ崎神社に会合して宣誓式を行い一種の政治結社の様な形になった。その会員は左の13名を数えるに至った。…

町長選挙戦
町長梅津善次郎の第三期目の任期は今年10月14日を以て終了する。町長本人は第四期目もやって見たい腹であつたが今回は誰も推薦するものがない。町会の過半数を獲得したことを確信するさつき会では早くも候補者を物色している。此際丸三一派の横暴を閉息せしめ清新な人物を立てようと詮索した。丸三派ではまだ候補者をきめていない。
さつき会では町長侯補として箱崎圭助に白羽の矢を立てた。箱崎庄吉は花巻町の発展の為には数々の功績を残して其の点に於ては誰も認めているけれども自ら町会に立って活動しようなどとの野心を起したことなく家族の者にもこの点は堅く戒しめて居たと言われる。それ故に養子箱崎圭助がさつき会から推薦を受けたけれどもこれに応諾する様子がなかった。けれども小原政治、佐藤忠治を始めとしてさつき会の連中は入交り立交って立候補を慫慂(しょうよう)し、特に平素丸三派と親密であつた橋本喜助が最も熱心にこれを推称したので、さつき会の団結がいよいよ堅まった。養父箱崎庄吉も遂に持論を捨てて「おれはもう隠居したのだから若い人達の考えできめたらいいだろう。」という事になった。箱庄の公共事業に対する寄与については町民の間にもよく知られているのでこの候補者の物色は先ず上々と言うべきであった。

所が梅善町長の任期の切れる間際になって佐藤金太郎は自ら出馬すると名乗りを挙げたのである。これは弟佐藤金次郎にも寝耳に水であつた。丸三佐藤金太郎は梅善町長の前期の終りにも小瀬川貞次郎等に立候補を勧められ、本人にその気持さへあれば恐らく無競争で出られたのである。然るに本人は頑として動かず「私はその様な柄ではありません。」と断り通して居たのであった。それだから佐藤金次郎も兄の立候補の明言を聞くまでは何等の関心も持たなかったのである。それが急に出るということになった。尤もさつき会に対する敵慨心もあったであろうが問題が大きくなった。花巻町始って以来最初の選挙戦である。初代柏葉富次郎は14年間、二代松川他次郎は8年間、三代菊池末治は10年間、四代梅津善次郎は12年間、4代通計40余年の間無競争平和の間に引継がれていた町長のバンド(?ママ)はここに端なくも激烈なる闘争の下に置かれることになった。一方の箱崎圭助はさつき会の推薦を受けるかどうかをまだ明言していないのである。而も戦闘は着々として進行した。全く時の勢であったと言いねばならない。…

かくて10月21日に町会が開かれ両派決戦投票ということになったが芝際で更に20日間の考慮を払うこととなった。この考慮期間中に明暗いろいろの運動があり11月のはじめからさつき会では町民演説会を開いて与論に訴えようとした。与論はいかにあろうとも町長を決定するのは24人の町会議員だけなので結局決戦投票が11月14日に挙行されることになった。当日宮沢直治は葉権して投票数は23 両派互に1票或は2票の勝戦を信じたのであったが結果は11票づつの同点に終った。中に一票「箱〇」とだけ書いて無効となったのがあった。
同点の場合は年長できめるのが当時の規定であつたから丸三派の勝利となり、その開票の席上で佐藤金太郎は早速当選の挨拶を述べ観衆をして阿然たらしめたのである。

当夜さつき会では万梅亭に残念会を開いたのであったが「箱丸」問題が話題の中心になったり…
佐藤金太郎が箱崎圭助と同点で町長になったということは当選の当初には昂奮しているから別だん何んとも思わなかったが冷静になるに従って彼の自尊心を疵つけるものが大きかった。佐藤金太郎は元来花巻町会の中心的人物で町長梅津善次郎もこの人には一目おいていたのである。そしてまた自分に町長になろうという野心があればこの前の機会にでも恐らくなることが出来たのだ。然るに妙なハヅミから自分で町長を買って出て而も同点という結果になったのだ。戦には勝ったけれども勝負では正に負けている。箱崎圭助は先代庄吉が亡くなってからは町内の各方面に勢力を振い第一人者として立てられる様になったけれども当時はまだ先代も健在で箱圭は言わばまだ部屋住みの身分であつたのだ。その部屋住と対々の相撲を取らされるとは何事であるか。…

昭和22
町長選挙
終戦後昭和21年の11月まで松岡町長は2ヶ年たらずの間在職してその後は助役の瀬川信一が町長代理でやって居たが戦後最初の町長選挙が22年の4月5日に行われることとなった。所謂民主々義の中で行われる始めての選挙である。…
民主々義が主唱せられるに及んで特に婦人や若年層にまで政権が与えられたのでそれが政治に干与する力が大きいものとなった。然しながら婦人や若年層には政治の何物であるかは直ちに了解されることが困難である。それだから22年の町長選挙はただ混沌の中に行われることとなった。

候補者は4名立った。
 北山愛郎  瀬川松次郎  新田安蔵  箱崎文弥
である。
北山愛郎(注3)は元花巻町会議員北山鏘一の長男で東大法学部の出身である。長い間東京市役所に勤めていたが戦争となってから支那に渡り北支にあって大陸を研究して居た。終戦後帰町したばかりで花巻町民には親しみが薄かったけれども社会党の左派を標榜して婦人層や青年層から共鳴者を得たし、盛岡中学校の出身なのでその方面に有力な応援もあった。然し従来の町政の幹部どころは殆んど問題にしなかったようである。
瀬川松次郎は元県会議員3期連続当選という経歴の持主で、屡々町長候補の噂にも上った人物であり民政党の先輩である。保守派の代表として重きをなしていた。
新田安蔵は花巻町会議員新田久蔵の実兄だが長く東京に住居していて戦争のために郷里に疎開した人物であるから知己友人を花巻に持たす且つ奇人として相手にされなかった。これは当初から問題でない。…
箱崎文弥は慶応大学の出身で元町会議員箱崎文秀((二代目)庄吉)の長男である。現在町会議員でもあり花巻町の名門という所だ。まだ自由党には入党していなかったが瀬川と同様保守派からの立候補である。
革新派の北山は毎日演説会を開き時には街頭演説もやって盛んに一般民衆に呼びかけた。これに対抗してこれも毎日演説会を続けたのは箱崎文弥である。町民に民主々義の精神の徹底しない現状において社会主義に走ることの危険なる所以を力説して昼夜東奔西走した。…
瀬川松次郎は演説会は開かず専ら旧花巻町の地磐を守り町内で散点を集めるという慎重な作戦に出て必勝を期した。

そして4月5日の投票の結果は
 3,156 北山愛郎  2,644 箱崎文弥
 2,641 瀬川松次郎  52 新田安蔵
で断然革新派北山の勝利となった。保守派箱崎と瀬川との得票の差は僅かに3点で真に互角の力であったことを現わした。北山は勝ったけれども法定点数には30余票不足であった為に箱崎との間に決戦投票を行わねばならないことになった。
若しも保守派が箱崎に投ずるならばその合計が5千点を越えて箱崎が勝つであろうし散票となれば勝敗の程は全然わからない。真面目に保守党の前途を心配するものは瀬川派を説得して箱崎に応援することを求め瀬川もこの事を承諾したのである。

10日おくれて4月15日に決選投票が行われた。
 4,261 北山愛郎  4,081 箱崎文弥
保守派の合同遂に成らす少差を以て北山が勝った。保守党の中堅は社会党の左派に対して甚だしく危倶の念を抱いたけれども、これは実は社会党が勝利を得たのではなくて群衆心理と北山の清新味との勝利であったことがやがて判明した。半ヶ月後に行われた町会議員の選挙が之を証明している。選ばれた議員は概ね保守党の連中であった。

昭和22年5月1日町会議員選挙の結果
 阿部迪  宮沢史郎  高瀬金之助
 三田勇治  畠山源吉  箱崎文弥
 宮沢重次郎  伊藤祐武美  照井謹次郎
 松田忠雄  宮川恵光  佐藤長次郎
 佐藤伊惣治  伊藤伝蔵  金沢秀次
 伊藤清一  島理三  永田兼蔵
 鎌田春吉  佐々木圭三  高橋朝雄
 市野川慶次郎  平賀干代吉  金矢政蔵
 南舘東市  田中金四郎
右当選26名の議員の中社会党を標傍して立候補したものは一人もないが社会党の臭味あるものは平賀千代吉、宮沢重次郎、佐々木圭三、照井謹次郎等にすぎない。
この4名の議員にしても敢て社会主義の政策を主張するというわけでもなく北山が社会党左派を標榜したところで町政の実際にその色が現われて来るというようなこともなかった。…
学校の建設にしても上水道の事業にしても北上川水路の問題にしても或は都市計画事業にしても町議会が一致して町長と一心同体になってやった成績であって何等社会主義政策とは関係がない。北山町長自身も亦「社会主義だの共産主義だのと言うけれども実際の事業の上では全くの白ということも全くの赤ということもあり得ない。」と言って頗る調和的な行動を取ったのである。

北山町長の第一期は昭和26年の春に終ったが第二期目には競争の相手がなく27年衆議院に立候補するまで続いた。…

[補足]
(注1) 旧花巻町役場:昭和4年(1929) 花巻町誕生の際に、現市役所の場所に「総檜造り」で建てられた。
昭和29年(1954) 花巻市誕生の折は、市議会議事堂として利用され、昭和45年(1970) 市役所新築に伴い現在の材木町に移築し、「市民の家」として現在も利用されている。

(注2) 佐藤金太郎:明治9年(1876)5月6日生、昭和10年(1935)2月20日歿、享年60歳。丸三酒造店主、大正6年(1917)花巻川口町の町会議員に当選、在任4期に及ぶ、昭和8年(1933)から3年間町長を務めたが、同10年(1935)任期途中で病没。

(注3) 北山愛郎:明治38年(1905)7月16日岩手県花巻市生まれ。盛岡中学・東京帝国大学で学び、東京市職員を経て、中国へ渡り貿易統制機関で働く。戦後引き揚げて社会党結成に参加、花巻町長を2期務める。昭和28年(1953)の衆院選に岩手2区から左派社会党公認で出馬、当選して昭和58年(1983)の衆院選で落選するまで通算10期務める。
この間、党政策審議会長(1970年~1972年)・党中央執行副委員長(1978年~1981年)を歴任。国民服(中国の人民服)で国会に登壇したり、政界を退いた後もミニコミ紙を発行して政治評論活動を続けるなど、独特の活動で知られた。
平成14年(2002)2月22日死去、享年96歳。

(2015.7.24掲)