「内史畧」と著者・横川良助

(太田俊穂(注2)著「南部藩記 – 『内史畧』の世界」(1975.4.5 大和書房)より)

苦闘と崩壊の記録(ルポルタージュ)
『内史畧』は戦国の末期、北東北の一角に封土を与えられて成立した南部藩が、幕藩体制のなかの一つの単位として、いかに苦悶し、いかに生きつづけるための努力をしてきたか、そして、どのような過程をたどって崩壊へ向って進んでいったかを300年の記録によって実証したものである。舞台はあくまで南部藩であるが、この一つの藩に象徴される当時の苦悩は、すべての藩に共通するものであることは論をまたない。ただそれが、克明に記録されて今日までのこっているかどうかである。 続きを読む 「内史畧」と著者・横川良助

島の七家、九家、八家

  島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。

島の七家は大要次のようであったと伝えられている。 続きを読む 島の七家、九家、八家

押切藤左衛門家のルーツ

      <1>
東十二丁目の押切総本家・藤左衛門家、その現当主の母・連津(れつ)さんの自叙伝(注1)に「押切姓のルーツ」と題して次のように記されています:-

現在、私達の住んでいる花巻市東十二丁目地区には「押切」の名字の家は約50戸ほどあって、1戸平均4人とすれば総数200人前後になるだろうと思われます(注2)。釜石市や県内各地にある押切の名字の家は、総(すべ)て私達の系統だと思っていたのですが、 続きを読む 押切藤左衛門家のルーツ

照井長者と照井沼 -北上川の変流?-

前回「照井沼を何故『照井沼』と呼ぶのでしょうか?」と疑問を呈しましたが、灯台下暗し、手持ちの本にありました。若宮四郎著「観光と花巻物語」(注1)の中の「怪談照井沼(照井長者の巻)」。16ページとかなり長い物語になっていますが、要約すると:-

      (一)
(1) 昔々十二丁目(注2)に照井宗兵衛という郷士がおりました。郷士とは俗に地侍とも言い、正式の武士の家柄ではなく、殿様から名字帯刀を許された地方で勢力のある豪農、豪商のことです。 続きを読む 照井長者と照井沼 -北上川の変流?-

稗貫郡長・葛博と賢治とダリア

宮沢賢治君を憶う      葛 博 (注1)
宮沢賢治君の事に就(つ)き申上ぐる様御下命に接し候(そうろう)(ところ)期限付の御下命に不尠狼狽仕(すくなからずろうばいつかまつり)候 老生元来数字的の頭無之(これなく)時日等の記憶は前後錯誤多く何分数字に触れぬ様申上候間(あいだ)御諒承願上候 続きを読む 稗貫郡長・葛博と賢治とダリア

箱圭・箱文 – 花巻町長選挙物語 –

(八木英三著・発行「花巻市制施行記念 花巻町政史稿」(S30.1.25)より)

昭和8
町会選挙
昭和8年(1933)は梅津町長が第3期の任期を終る年だがその4月27日に花巻両町合併後第2回目の町会の総選挙が行われた。24名の定員に対し3名超過の27名の競争となり左の通り当落があった。
 154 照井謙治郎  153 佐藤金太郎  131 平賀干代吉
 125 橋本喜助  125 阿部円蔵  118 箱崎文秀
 116 佐藤伊惣治  116 伊藤直治  111 金矢政蔵
 110 瀬川松次郎  110 宮沢直治  109 佐藤忠治
 107 松田忠太郎  100 高橋金太郎  98 松田徳松
 98 高瀬新太郎  98 島理三郎  96 阿部弥太郎
 96 伊藤弥太郎  94 小原政治  84 藤山清吉
 80 小瀬川貞次郎  74 菅原重信  74 宮沢重次郎
 次点 73 松岡守一  56 菊池一郎  22 戸田弥兵衛
この選挙は非常に激戦であったと同時に意外の番狂わせが見られた。 続きを読む 箱圭・箱文 – 花巻町長選挙物語 –