日墨協働会社略史

– 三奥組合設立から日墨協働会社解散、日墨貿易会社設立まで –

1901(明治34)  亮次郎 27才
3月4 三奥組合設立(任意組合)
組合員  照井亮次郎、高橋熊太郎、清野三郎(以上3名、自由移民出身)、有馬六太郎、山本浅次郎、鈴木若(以上3名、契約移民出身)の6名
理事(組合代表者)  照井亮次郎
事業規模  小店2軒、農場1個所(多福岡(タフコ))、資産金合計2,800ドル
営業内容  牧畜、小売、製糖、醸酒、竹製家具製造販売、出稼ぎ
組合規則  ⇒ 「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」
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もうひとつの南米移民

(島区民会編・発行「島小百年史」(S48.11.3)より)

このたび島小学校百年誌の編集特に草創時代明治初期の編集にたずさわってみて、わが郷土島部落の初期における子弟教育のため長い間物心両面から多大な尽力をなされた古川宗家(屋号「孫左エ門殿」)の南米移住、及びその後の動向を追録してみるのも意義のあることであり、また編集者たる私(押切省三)の責任だと思い聞き得た範囲で書き残します。

近郊で名だたる名家であり、富豪であって、私塾時代に尽くされた忠栄氏が、私塾を開いたのはまことに先見の明があった方で、続いて小袋小学校時代に教鞭を取られた茂兵衛氏、その長男の忠直氏と次第に時代の風波に抗しきれず、大正末期に忠直氏が弟と共に南米移住することになったのです。それはもちろん生活に困ってという事ではなくて、古川家の血をひく雄図、気慨が根底になっていたのに加えて、弟永助氏の勧誘が最大の原因だったといわれています。 続きを読む もうひとつの南米移民

亮次郎の迷走

-メキシコ上陸から三奥組合結成まで-

1897(明治30)  亮次郎 23才
5月10 サンベニト港に上陸。亮次郎は監督者草鹿砥に同道して旅宿選定のため午後1時頃馬でタパチュラに向け先発。午後7時頃タパチュラ着。英国殖民会社支配人の厩を殖民団一行の宿舎に借り、食物は中国人料理店から取寄せ、一行の到着を待つ。一行は午後2時ごろ徒歩で出発。11日午前4時過ぎにタパチュラ着。亜熱帯性気候の暑さで大きな苦痛を味わい、早くも前途への不安と不満が芽生える。サンベニトからタパチュラまで約30km。
5月16 携行した食料品の到着を待って、タパチュラに5日間滞在。日中の高温を避けるため、午前2時に出発。午後1時頃に予定の宿泊場所、ウエビタンに到着。食事は自炊。
5月17 午前3時に出発し、ウィストラに到着。
5月18 午後2時頃、亮次郎等は遂に目的地のエスクイントラに到着。タパチュラからエスクイントラまで75km。
5月19 病人が出たため遅れていた3名が午後9時に到着。横浜港出港以来、実に57日目。この日を「殖民地創始の記念日」と定め、毎年祝うことにする。
住居未完成のため、メキシコ人の小屋2軒にひとまず落ちつく。 続きを読む 亮次郎の迷走

亮次郎、自由移民として渡墨

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
契約移民募集
1897(明治30)年2月23日、草鹿砥(注1)は日墨拓殖会社から移民監督として「墨国事業担任ノ命令」を受けた。 出発は、…太平洋汽船会社との話し合いにより、桑港(サンフランシスコ)からサンベニトまでの船の乗り換えの都合上、既に3月24日と決まっていたため、僅かに29日間の日数しかなかった。
彼はこの限られた期間、早速郷里の三河(愛知県)に帰り、自分で、計画されていた38人の「移民」の募集にとりかかった。 しかし、集めたのは20人にすぎず、計画の人数には達しなかった。そこで、友人…に頼んで播磨(兵庫県)からようやく8人を集めた。それでも足りなかったため、自由移民として亮次郎ら、自費で渡航する者たち6人の同船を認め、ノルマを果したのである。
その結果、移民団は総勢35人となった。構成は、監督者・草鹿砥寅二のほか、契約移民(契約労働者)28人と、自分で渡航のための費用を工面した自由移民(独立移住者)6人である。… 続きを読む 亮次郎、自由移民として渡墨

明治新撰規矩的当図解

規矩的当図解自  序

本書は専ら規矩的当図形(キクテキトズカタ)を画き、又算術にて其の理を解く事を示す(注1)。都(スベ)て規矩準縄は水平と縦水に勾配を引きて構成せる勾股玄(コウコゲン)に起れり。其の勾股玄は算盤(ソロバン)の三四五(サンシゴ)(注2)則ち曲尺(カネジャク)の起原なり。故に算術は方円平直に起り、方円平直は規矩準縄より起る。而て規矩準縄を以て為さざれば、真正の方円平直を求る事能(アタ)わず。 続きを読む 明治新撰規矩的当図解