7.4 山は誰のものだったか?

東十二丁目(655㌶(注1))の東側半分近くを占める第10地割(123㌶)、第18地割(92㌶)、第19地割(96㌶)、合わせて311㌶の大半を山林が占めている。この山々の標高は、第10地割の最高地点が192.2m、第18地割と第19地割では夫々233mと209.4mである。なお麓の歓喜寺の前庭が70.1m。
東十二丁目の住民はこれまでこの山々とどのように関わってきたか?

1) 本誌(注2)「第7章 近 代」/「第9節 山林等の調査」の「山の所有」の項に、《藩政時代の山林原野は初頃は知行地に含まれていたが、寛永7年(1630)からは藩の直轄支配となった。…その後宝暦8年(1758)には領内山林の総検地も行われ、御山書上帳が作られたという。》とある。しかし本誌には、近世の東十二丁目村村民が山林にどう関わっていたかの具体的な記述はない。

山林は、家畜(主に馬)の飼料・燃料・建築用資材(木材・屋根葺き用萱(かや))等の生産場所として、当時の村民にとって必要不可欠なものであったはずである。田畑の場合は、知行地であろうが蔵方分(藩直轄地)であろうが、個々の農家が特定の土地を耕作し、年貢を納めていた。山林はどうだったのか?

2) 同節「調査実施」の項に、「山林原野池沼等調査 地割別集計表(明治10年 東十二丁目村)」が載っており、そこには地割別に山・山林・野・溜池水溜沼地・湧水・山・草生地別の面積が記されている。それによれば合計65町歩(≒㌶)余、その他に山 15ヶ所、野 8ヶ所とある(これらには山地部のみならず平地部にあったものも含む)。65町歩という数値は前掲の3地割合計311㌶に比べてかなり小さい。

・この調査書の末尾に《右は今般民有山林原野池沼等の地所反別取調方仰出(おおせいだ)され候(そうろう)に付、各地主立会い、一筆限り精密取調候…》とあり、集計表の土地は持主を特定できる民有地だったことが分かる。

3) 同章「第10節 官地借用」の「草地等官地になる」の項によれば、《明治10年の山林等調査によって、官地と民有地が明確に区分され、大幅に官地が増加し、農家では飼育する馬の秣(まぐさ)の刈取地や、萱(かや)苅り場にも困るようになった為と考えられるが、翌11年に村の総力をあげて官地の借用を願い出ている。…資料の様に許可され、5ヶ年間の鑑札が各人に交付された。》
借用が許可された土地は合計77町歩余。当時東十二丁目に官地が全体でどれ程あったかは不明。

4) 現在では東十二丁目の山林は、道路などの公用地を除いて、全て私人又は私企業が所有する私有地と思われる。明治10年に官地とされた山林がどのような経緯を経て私有地になったものか?

東12丁目 第10・18・19地割
(巻末(p.)に拡大カラー図あり)

1. 藩政期の山
(1)盛岡藩の山林統制(注3)
1) 領内の山林資源は、寛永7年(1630)以前においては藩士の知行地の山林も知行高に含め、知行主(藩士)が支配するというものであった。ところが、寛永7年の改革により、これ以降は藩士の知行地を田畑のみに限り、藩領内すべての山林原野が藩の直轄地に編入されることとなった。

2) 盛岡藩における山林・原野の区分・性格を明確にすることは難しいが、管理・収益の主体を基準として分類するとおおよそ次表のようになる。

山林の種類 管理・収益
の主体
所有者
御山 御留山
御囲山
御明山
水ノ目御山
御野
高ノ目山 個人
居久根山
山野
取分植立山 藩と植栽者

御山とは藩が管理・経営する最も重視された山林であり、これはさらに以下のような性格を有する留山・囲山・明山・水ノ目山に分類されていた。
留山とは特に木性の良い場所を指定し、御用木の他は伐採しない非常用造林地である。
囲い山とは良質の檜を産出し、平時は伐採せず不時の用に備えて囲いをしていた山である。
-御山のうち、留山・囲山以外の山を明山といった。ここでは御用材の生産だけでなく、百姓の需要による伐採も行われ、入会山的性格が強い。
水ノ目山は水源涵養のために禁伐とされた山林であった。
・これらと同様に、管理収益の主体が藩にあるものとして御野がある。これは藩の管理下の原野として、主に野馬育成のための牧場として利用されるものであった。
・管理・収益の主体が村であるものとして山野が、主として百姓などの個人にあるものとして高ノ目山や居久根山が定められていた。これらは百姓が生産・生活資源(肥料・建築材・薪炭など)を自由に採取できる山林であった。
高ノ目山は村高に編入されている山林であり、田地が荒廃して山林化したもので、租税対象となった。
居久根山は宅地に接続する山林であるが、百姓が建築材として利用する場合は届け出て許可を得ることになっていた。
・管理・収益の主体が藩と藩士や百姓にあるものとして、取分植立山がある。これは藩士・百姓が杉・松などを植立て、その収益を藩と植栽者が一定の比率で分収するいわゆる部分林である。

3) 以上のような領内における山林の管理は、勘定奉行・山林方・地方代官・山奉行・山守によってなされたが、実質的な管理者は山奉行と山守であった。
山奉行は各通(とおり)の代官所に勤務し、春秋2回所轄地域の見廻りを行い、山守は日々の巡回を行うなど、日常的な管理を担っていた。この山守は、主に山下の村の上層百姓が官選によって任命された。

4) 土地は林野を含めて個人の私有を認めないのが徳川幕府の当初の原則であった。しかし社会が安定し、通貨が社会経済の重要な要素を占めるようになると、土地売買の禁が崩れて、田畑や宅地の売買が漸次公然化してきた。そして山林の売買も公然と行われるようになった。

(2)東十二丁目では
1) 東十二丁目における山林等の上記種類に関する史料は見当たらない。
・享保20年(1735)に書かれた山林等の「産物書上帳」に「東十二丁目村山守」として3名の名前と押印がある。(注4)

2)天保検地絵図面:本誌の著者である石崎先生が収集した古文書の中に「古川(友)家文書」として、天保14年の検地の際に作られた東十二丁目村絵図面27枚がある。
以下にこの中から「ぬ印」(第10地割)、「そ印」(第18地割)、「つ印」(第19地割)の3ヶ地割の小絵図を示す。

小絵図ぬ印
(巻末(p.)に拡大図あり)
小絵図そ印
小絵図つ印

・絵図の中に8ヶ所の「御林」が見えるが、「御林」とは何かは不詳。
 押切御林(ぬ印(第10地割)
 寺ヶ平御林、天神御林(そ印(第18地割)
 天王御林、石崎御林、山神御林、虚空蔵御林、居久根御林(つ印(第19地割)

3)当時既に山地部に相当の地番が振られているが、これは検地の対象になった田畑や居屋敷(宅地)である。
 ぬ印(第10地割)  1~204番(欠番又は不明のもの16件)
 そ印(第18地割)  1~106番
 つ印(第19地割)  1~165番(欠番又は不明のもの4件)

・山地のかなり奥にも田畑が開かれているのが見て取れる。例えばそ印(第18地割)の大沢を登りきった更に先、尾根に近いと思われる辺りに1番から12番の土地がある。1番 源左ェ門 畑3切、2番 重治 畑3切、…6番 多助 田5枚、…。現在ではこの付近は全くの山林である。

2. 明治初期の山
(1) 岩手県の林制
(注5)
・明治5年(1872)2月(大陰暦)に太政官令によって、何人といえども、土地を持ち、或は売買してもよいという基本が示された。また明治6年には地租改正条例が公布されて、土地の所有者は、地目の種別を明瞭にし反別や等級を定め、地価に応じて一定の税を納めるという事になった。

岩手県では田畑・宅地などは明治8年に調査したが、山林原野の席上調査が明治9年に漸く集計した程度で、その実測は其の後に延びた。従って明治10年頃までの本県の林野は、民有(共用その他を含む)と官有のものを区分するに精一杯であり、実際の測量は伴わなかった。
明治12年の本県の山林原野は、総計51万町歩余(≒㌶)で、内民有林は47万町歩余程度であろうか(山岳などは含まず)。

 1) 山林の類別  明治5年6月、岩手県より大蔵省に陸中国(当時の全県下6郡)の林政慣行について書上げ報告している。それによれば :-
・留山:旧盛岡藩非常用材立林であり、平素の用材には使用せず。全く官林に見なすべき山林。地所を払下げた場合は、地代年100分の1。
・歩合取分山:前記留山中に許可を受けそこに植林し、成木後に歩合を植林者が取得するもの。当局と植林者間に契約書が交わされるのを原則とする。
・札山:関係村々が共同植林し、その成木は当局又は村方の建築用材に充てるも、その取得は概ね村方であった。藩は制札又は券状を下付するのみ。
・水ノ目山:水源地保護の必要上存置設定された保安林で、当局の管理下にあったもの。
・持山:個人の自由になしうる立林。
・村預け山:入会たる共有山林。
・炊料(たきよう)山:最寄りの村々に随時解放し得る範囲に設定されるもの。
・高ノ目(たかのめ)林:従来からの有税地で、米に換算して(石盛制)年貢を納めていた山林。土地の私有が公認されていたので、地租制度が定まると、官私区分に際して直ちに民有地として認められた。

2) 新制度下における二三の施策例
・境界標建設の指示: 明治7年5月に官・公・私有の山林原野に関し、全て標杭を建設させ、各境界が一見して明らかになるよう指示した。
・苅敷の採取は自由:明治7年7月には、肥料として苅敷を取ること、飼料として秣を採取することは、官山に入るも妨げなしと布告した。

3) 存置林調査: 明治7年6月、内務省から派遣された官吏らにより、岩手県管下で存置すべき山林が調査され、総計234ヶ山が存置すべき山林として報告された。後に一等官林といわれたのはこの存置山林であろう。これ等の山の8、9割は北上川以西にあった。

4) 官私区分: 明治7年12月に至り、県では山林の官有私有の区別を為すべき方針を定め、これを内務省に稟請して指示を仰いだ。
・藩政時代に於いては個人の所有が認められないのを原則としたが、藩政末期に至り、財政上の必要から、種々の利権を附与したなどの事情が絡んで、官有・民有の区分の上に支障をきたすような複雑な問題をはらんでいた。
ことに事情に疎い新来の県官ではその判定に至難な問題があった。

私有林として公認されるためには持主が売買証文などの「山林持始末」の提出を求められたが、明確な支証がない場合も多かった。

・明治8年4月に内務省から布達があり、官林は一等官林と三等官林に区分することになった。明治7年8月制定された存置官林は保護を加え保存し続ける山林として一等官林に、民間に払下げてもよい官林は全て三等官林に指定された。二等官林は未定のままであった。

・明治9年5月に至り一応旧管内の山林・原野・荒蕪・池沼等の官私区分の席上調査を完了した。その集計を見ると左の如くであった。

 総計 95,007筆(但し明治7年に一等官林に編入された234ヶ所を除く)
 内 官有   11,791筆、 民有 82,156筆
   区分未定    1,057筆、 論地          3件

・以上の成果を得て報告し、其の実測面積は明治10年より測定してこれを報告せんことを上申した。しかし内務省からは直ちに実測に着手するようにとの指示があった。

5) 民有林野の実測: 民有に属する山林地租は、全国一般明治9年をもって実施になった。然るに岩手県においては、官私区分の調査が、席上調査が明治9年5月に旧管地域を終り、翌10年5月に全管内を結了したので、同年5月に民有林野の実測並びに地価調査に着手した。
– 民有林野は同年12月末の報告によって約513,000町歩と知られたが、地価はなお未調定に終って翌年に持越された。
– その後明治15年頃になると、官有林・民有林の反別も大方定まった。
– 民有林野は、その反別や地価が決定するに及んで、その地租が定まり、一定の税金を納入することとなり、一方売買も自由に行えるようになった。

・山林の官私区分や、民有林野の実測に際して、県当局は内務省等と頻繁に連絡を取りながら事に当った。時の岩手県令 島惟精(注6)、内務卿・地租改正事務局総裁 大久保利通であった。

・県では、内務省地理寮官吏の指導を受けて官私区分を進めたのであるが、その処置は当地の実情を知悉してのものでなかったので、適切か否かに問題があった。
それまで民有であったが、支証不十分で官林に編入されたとか、支証文献を官歿されたとか、課税を嫌って無理に官有に入れたとか、その他多くの問題を含んでいる。
また、このような山林台帳の作成に際して、旧藩以来の山肝入や山守、または当時の役人等が、合法的にあるいは地位を利用して、山林地主になることもそう難しくなかった、ということもあり得たであろう。
いずれにしても明治・大正・昭和に続く山林争議には、この官私区分に絡む問題が多い。

(2) 東十二丁目では
1) 石崎先生が収集した古文書の中に、「小田島(一)家文書」として地割別の小絵図26枚があり、文書上には記されていないが、先生作成の目録に「明治8年(1875)」とある。
明治8年と言えば、官私区分の席上調査が行われていた時期である。
以下に第10地割、第18地割、第19地割の小絵図を示す。

第10地割小絵図
(巻末(p.)に拡大図あり)
第18地割小絵図
第19地割小絵図

・これ等3ヶ地割の地番を見ると、次のようになっている。
  第10地割:1~270(欠番又は不明のもの17件)
  第18地割:1~209(欠番又は不明のもの5件)
  第19地割:1~296(欠番又は不明のもの?件))

2) 先述の天保検地絵図とこの絵図を比べてみると:
・前者が検地対象の土地のみに地番が振られているのに対し、後者では全ての土地に地番が付され、筆数が前者に比べてかなり多くなっている。
・地目についてみると、前者では田、苗代、畑と居屋敷(宅地)の4種であるのに対し、後者では田、開墾田、荒田、畑、開墾畑、荒畑、宅地、墓、溜池・水溜、林、山、草地、野と13種に細分されている。
・「林」と「山」の違いは不分明。「林」にはかなり狭小なものが多くあり、個人所有の民有林のように思えるが、「山」が官地とは限らないようである。

3) 本誌の第7章 近代 / 第10節 官地借用の「草地等官地になる」の項に《明治10年の山林等調査によって、官地と民有地が明確に区分され、大幅に官地が増加し、…》とあるが、これは東十二丁目村(民)が私有地であると申立てたにもかかわらず、私有地として認められなかった土地が多くあったということか。

3.明治中期以降の山
(1)国有林野の村方解放(注7)
ここでは国有林野の村方解放(下げ戻しや払下げ)について述べる。
明治5年に、土地の所有や売買が公認されたので、地租改正と併行して、土地の官私区分という大事業が展開された。まず民地の所有者を確定し、面積を測定し、等級を定めて税額を決定した。民有地以外は国有地とされた。
しかしこの官私区分には、簡単に判断できない多くの問題を包蔵していた。長い習慣からくるもので、土地は藩主のものというのが原則であったが、土地の管理・使用には多様な形態が併存していた。

本県における林野等の官私区分調査は明治7年(1874)頃に本格化し、実測を含めて調査が一段落したのは10年12月であった。
この官私区分では多くの問題を後に残したが、その中でも村方の共有林野であり、生活必需品取得の場である入会地(いりあいち)は複雑困難な問題であった。
官私区分によって、従来の入会林野が、正しく入会者側の共有として処理されたものは良しとして、入会地を主張せず、または確証なしとして官没になるものも生じた。また山肝入・山守・その他、当時村方で権勢ある者の名義に書替えられ、それまでの入会受益者が、新しい法律下では所有権を主張し得ない破目になる例もあった。また当時は入会受益者側が共有地主張に積極的でない傾向も見られた。

しかし官有林野が決定するに及んで、その入山は誠に窮屈になり、山林に多くを依存していた山村農民にとっては、多大の不便をもたらした。
このような不自由さも原因して、不要存置の国有林野の払下げや下げ戻し問題が台頭したのは当然である。(注8)

1)国有土地森林原野下戻(さげもどし)
明治32年(1899)4月に至り、国有土地森林原野下戻法が公布され、その下げ戻し等に関する「申請手続」が農商務省令で定められた。
その結果、官私区分の際、誤って国有地に編入されている土地や、支証不足で国有地になっていた林野など、それぞれ立証を添えて下げ戻しを申請するものが、俄かに多くなった。
本県の場合、払下げの例において、明治33年には2,441町歩と前年の15倍強に増加しおり、本法が作用したとみる外ない。

下げ戻し申請は33年6月30日限りで、全て打切りと告示された。その後は、申請が受理されぬばかりか、期限内に申請しておかぬと、行政裁判所への提訴もできぬ定めであった。
本県下でも、下げ戻し申請は多く出されたが、多くは支証不足で却下され、また受理されて行政裁判所に持ち込まれても大臣勝訴となり、官私区分の際の措置は正しいとされるものが多かった。

下戻法の適用については、国会でも激しい議論が行われた。殊に申請受理の期限を33年6月30日までと、僅か1年間で打切りとしたことが非難されたが、政府は折から着手しつつあった国有林野経営事業を推進する必要から、強引にその打切りを実施したという。

2)不要存置国有林野売払規則
・国有林の経営において、明治期にその組織体系が整理されていく中で、明治32年(1899)に国有林野の管理経営の基本法規である「国有林野法」及び国有林の整備事業を一般会計から切り離して特別会計で行うための「森林資金特別会計法」が成立した。そして国として管理経営する必要のない林野を民間に払下げ、その代金を特別会計に積立て、これを財源として国有林の森林整備を行う「国有林野特別経営事業」が開始された。これによって明治期の国有林成立以降徐々に実施され始めていた森林整備等の取組が、法令に基づく全国統一的な取組として本格的に行われることになった。

・国有林野特別経営事業の活動資金を補う目的で、「不要存置国有林野売払規則」が制定された。払下げ方法は、原則として不要な国有林野を縁故者へ有償で譲渡し、所有権を移転する方法がとられた。

(2)東十二丁目では
1)国有林原野払下(はらいさげ)

下草刈採鑑札
(巻末(p.)に拡大カラー図あり)

・東十二丁目村では官私区分以降、山林等の多くが官地とされ、農家では飼育する馬の秣(まぐさ)の刈取地や、萱(かや)苅場にも不自由するようになった。
そのため明治11年(1878)に村の総力を挙げて官地の借用を願い出て、許可され、5ヶ年間有効の鑑札が各人に交付された。さらに5ヶ年間延長の鑑札もあり、引続いて申請し、許可されていたようである。

・古い登記簿や土地台帳を見ると(注9)、明治35年(1902)から39年にかけて多くの山林が払下げられたようである。この払下げの経緯を記した資料は乏しいが、石崎文庫(注10)所蔵の「諸参考資料」ファイルの中に国有林原野払下げに関する資料2点(控の写か?)がある。出所不明の資料であるが、その内容を紹介する。
– 一つは「国有林原野払下願」の目録で、11件が列記されており、総面積162町(≒㌶)余とある。
– 他は目録の中にあった1件、「八森148番」の縁故払下願である。

・この払下願は明治36年6月に「惣代人 古川万作」の名で出願されたものであるが、「加盟者」として176名の氏名が列記されている。「東十二丁目誌」によれば、明治24年の当村戸数 195戸を参考値として提示しているので、当村のほとんどの戸主が名を連ねたことになる。
払下願には、縁故・立証・目的が「事由書」として記されている。

[国有林原野払下願 事由書]
国有林原野払下願 事由書

・願書の日付が明治36年6月であることから、この払下げは国有土地森林原野下戻法によるものではなく、不要存置国有林野売払規則によるものと考えられる。この場合、払下げは有償だったはずだが、費用に関する記載はない。

・払下願に至る経緯の記録は見当たらない。想像してみるに、2つのケースが有り得るように思う。
1: 官民区分の際に、村が申告した民地が認められず、官地とされた場合が多かった。そのため国有土地森林原野下戻法による下げ戻し(無償払下げ)を申請したが、これも認められなかった。そこで村民はやむを得ず不要存置国有林野売払規則による有償払下げを願い出た。
2: 官地借用により不自由なく暮らしていたが、国有林野特別経営事業の活動資金獲得を急ぐ政府から払下げ取得の勧奨(官地借用打切りの通告)を受け、払下げを願い出た。払下げられた場合は、借用時に支払っていた使用料は不要になるが、代価を負担した上に、新たに課税されるので、農民は払下げを積極的に望んでいたわけではなかったのではないか。

・払下げ後の所有形態について、他で見られる共有とか有力者による独占的所有は無かったようである。代表者による大面積の払下げの場合でも、払下げ直後に分筆され、多くの村民の個別所有となった。具体例は次項で取上げる。

2)山々の来歴
東十二丁目東部に横たわる山地について、旧土地台帳と閉鎖登記簿をもとに、典型的な数筆の来歴を記す。

  ① 官私区分時に私有地と認められた山林で、旧家・藤左ェ門家の持山
  ② 官地が払下げられた後、分筆されたが、大半が払下げを受けた者の所有となった山林
  ③ 官林が払下げられた後、多くの土地に分筆されたもの
  ④ 同上
  ⑤ 官私区分時に私有地と認められた山林で、面積狭小なものの例

① 第10地割(外山)245番
・天保検地絵図面(天保14年(1843))に「押切御林」と記されている。
当時から押切藤左ェ門家の持山として公認されていたということか。
(この絵図面には合わせて8ヶ所の「御林」が見えるが、「御林」が何を意味するか不詳)
・土地台帳の先頭記入事項:地目 山林、反別 60反620、所有主氏名 押切彦八
・明治23年(1890)12月 開墾成功に付 3畝22歩を分筆
・明治33年3月 押切與一郎が家督相続し所有権を登記、山林 6町2畝28歩

② 第10地割(外山)261番
・土地台帳の先頭記入事項:地目 山、反別 242反724
・明治35年(1902)3月 佐藤孝清へ払下げ、同年12月 分筆のため本番に1より14までを附す
・明治36年1月 佐藤孝清の所有権を登記、261番1 山林 23町3反6畝10歩
・佐藤孝清は明治38年から明治40年まで矢沢村長、明治44年から大正7年まで県会議員を務めた

③ 第18地割(竹原)8番
・土地台帳の先頭記入事項:地目 官林、反別 222反120
・明治35年3月 古川重教へ払下げ、同年12月 分筆に付1より51までを附す
・明治36年1月 古川重教の所有権を登記、8番の1 山林 2反9畝18歩

④ 第18地割(竹原)17番
・土地台帳の先頭記入事項:地目 官林、反別 220反923
・明治39年(1906)6月 農商務省が所有権保存登記、同日 古川恵次郎へ払下げ、売買による所有権移転を登記
・同年9月 分筆に付本番の1より51までとする
・明治39年10月 古川金兵衛へ売買による所有権移転を登記、17番の1 山林 1反1畝25歩

⑤ 第19地割(村屋敷)242番
・土地台帳の先頭記入事項:地目 山林、反別 0反027、登記年月日 明治22年(1889)5月、所有主氏名 菅原善作
・明治23年4月 大木栄治へ売買による所有権移転を登記

 [補足]
(1) GoogleMapでの図上測定値
(2) 「東十二丁目誌」 石崎直治著、H2.2.28 同人発行

(注3) 「盛岡藩領五戸通における御山支配と山林利用」(「農業史研究 第44号」 (日本農業史学会 2010))に依る。
(注4) 「東十二丁目村 産物書上帳 享保二十年」参照(⇒https://hitakami.takoffc.info/2018/06/sanbutsu_kakiagechou/)
(注5) 「岩手県史 第9巻 (近代篇 第4)」(岩手県著、1964 杜陵印刷発行)の「第6章 本県産業の変遷」/「第2節 林業と林政」に依る。

(6) 惟精(しま いせい):東十二丁目の別称である「島」やリンゴ博士で有名な「島 善鄰」とは関係ない。天保5年(1834)、豊後国大分郡において延岡藩代官・阿南胖助の2男として生まれ、府内藩医・安東芳庵の養子となり、のち島姓を名乗った。
なお、島 善鄰(しま よしちか)は明治22年(1889)、陸軍軍人・島 時中の5男として広島県広島市に生まれる。8歳の時に父が亡くなり、岩手県稗貫郡矢沢村(現・花巻市)高木(父の本籍地)に移る。妻の浦子は、4代目瀬川弥右衛門の妹であった。

(注7) 下記資料に拠る。
・「岩手県史 第9巻 (近代篇 第4)」(岩手県著、1964 杜陵印刷発行)の「第6章 本県産業の変遷」/「第2節 林業と林政」
・「明治期の国有林野事業について」(林野庁)
(⇒https://www.rinya.maff.go.jp/j/kouhou/archives/ringyou/kokuyurin.html)
・「青森県津軽地方における官地民木林の史的展開過程」(赤池慎吾著、2009 東京大学農学部演習林報告)の「5.2. 不要存置国有林野売払規則による官地民木の大規模払下げ」
(⇒https://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/publish/files/bulletin/bull/121/05.pdf)

(注8) 東十二丁目村において官有林野に対する不満が顕在化していたかは疑問である。当村では明治11年にいち早く合計77町余の官地借用が許可されており、林野の利用に不自由していなかったのかもしれない。

(注9) 東十二丁目の山地部について、旧土地台帳と閉鎖登記簿を全て調べれば、色々と解明できそうであるが、法務局の書面請求に1筆当り 600円、1000筆では60万円の手数料が掛かる!!
(注10) 石崎文庫:島コミュニティセンター内、本書の著者・石崎直治先生が収集した資料や書籍が収められている。

(2019.4記/21.10改)