「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-

(「平成2年度花巻市内遺跡詳細分布調査報告書 -花巻地区-」(1991)より)

北上川東岸地区
猿ヶ石川は、早池峰連峰薬師岳に発し、北上山系の山地・丘陵地を開析しながら西流し、花巻市内で北上川に合流する河川である。この猿ヶ石川左岸と北上川に限られた地域が、北上川東岸地区である。
地区内の地形は東西2つに大別できよう。西半分には北上川谷底平野が広がる。北上川の流路のターニングポイント周囲には自然堤防が発達している。また後述する長根・小袋地区及び穂貫田・大木地区には、大きく蛇行した旧河道が残っている。「島」という地名は、これより付けられたものという。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-

「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

「東十二丁目誌」の第2章・第5節「東十二丁目の遺跡」には「高木村の歴史」(注1)から引用して、大沢(一)(集落跡 縄文・平安)、大沢(二)(集落跡 縄文・平安)、小袋(集落跡 平安)、そして薬師堂(館跡 平安)と4ヶ所の遺跡を挙げ、「縄紋時代の遺跡の分布では、北上川東岸の河岸段丘沿いが多いと云われているが、当地域にも地形的に考えてまだ確認されず地中に眠っているものも相当にあるように思われる。」と付言しています。

少し調べてみて驚きました。東十二丁目は「遺跡の郷」の様相を呈しています。平安時代以前のものだけで13ヶ所、人家のあるところの大半が遺跡(公式には「周知の埋蔵文化財包蔵地」と言うようです)に含まれているのです。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

満州から胡四王山へ!?

[プロローグ] 6-7年前、生前の父との会話 :-
父 「お前が中学生の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
私 「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。大体「矢沢」は知っていても、「幸田」なんて知らなかったのでは。ところで何故?」
父 「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったんだ。」
私 「終戦後の満蒙開拓団の引揚げのことかな?」
父 「いや違う。ずっと大昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。ちょっと待って…この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
私 「…そんなことは書いてないなあ。 続きを読む 満州から胡四王山へ!?

東歌・防人歌 -犬養孝を聴く-

私は4-50年前に東京から大阪に転勤になり、かの地で2年余りを過ごしました。仕事場は大阪の淀屋橋でしたが、住いは奈良・学園前の公団住宅。
奈良で聴いたせいもあってか、ラジオで放送された犬養孝(注1)が詠い、語る万葉集に夢中になったものです。犬養孝独特の詠唱と語り口が何とも言えませんでした。今改めて聞いてみるとそれ程でもないのですが。

残念ながら万葉集に北東北は出てこないようです。万葉集に現れる最北の地は今の宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(東北本線小牛田駅東方)だとか。 続きを読む 東歌・防人歌 -犬養孝を聴く-

石崎文庫

石崎先生(平成6年(2004)没)のお宅が、県道バイパスの用地内に入ってしまい、昨年取壊され、移転しました。そんなこともあってか、石崎先生の蔵書が石崎家から島区民会に寄贈され、現在は「石崎文庫」と名付けられて、島コミュニティセンターの図書室にあります。
「石崎文庫」には、一般の市販本だけでなく、「東十二丁目誌」の原稿や東十二丁目関係の古文書等のコピーも含まれ、「内史略」と「南部叢書」の全巻も揃っています。 続きを読む 石崎文庫