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教育者/新聞人/政治師・八木英三の終戦まで

□ 明治19年(1886) 9月、「巌手日日新聞」(「岩手日報」の前身)が発刊される
■ 明治20年(1887 0才) 八木英三、元花巻城士大関時五郎の次男として里川口村(後の花巻町)に生れる(注1)
・祖母の実家八木家に入籍
□ 明治29年(1896) 宮沢賢治、里川口村(後の花巻町)に生れる
□ 明治36年(1903) 賢治、町立花巻川口尋常高等小学校(現花巻小学校)に入学
■ 明治38年(1905 18才) 花巻川口尋常高等小学校へ代用教員として赴任。
・3年生の担任となり、宮沢賢治と出会う。
□ 明治38年(1905) 賢治、担任の八木英三先生から、エクトール・マロ原作・五来素川翻案「家なき子」や、「海に塩のあるわけ」などの童話や民話を読み聞かされる。
■ 明治39年(1906 19才) 花城尋常高等小学校(旧花巻川口尋常高等小学校) 4年生の担任。

宮沢賢治(花巻)
…筆者が17歳の少年にして盛岡中学校を半途退学、始めて花城小学校の代用教員を拝命、尋常科の3年生を担当した時彼はその組の生徒であった。ここには其の思い出を語るに止めよう。私の前のこの組の担任は寺小屋の師匠「吹張先生」であったが、どの様な教授をしたものか50余人の児童の教室内の騒々しさは言語に絶するものがあった。これを鎮める為に鉄拳の無効であることを知った私は、アンデルセンと早変りした。そして先ず語りはじめたのは五来素川訳すところの「まだ見ぬ親」(注2)であった。この一篇を語り終るのにやや半歳を要したかと記憶する。少年であった自分自らが童話の中に融け合って話すので、その時ばかりは教室は全く水を打った様な静けさで、所々にススリ泣きが聞えることも少くなかった。

この子供等の中に三人の秀才児がいた。私は私(ひそ)かにこれを「三治」と呼んでいた。佐藤金治、宮澤賢治、小田島秀治がそれである。三治殆んど甲乙がなかったが金治は習字の点で群を抜いて級長であり、副級長の賢治より秀治の方が万事子供らしくて三番であつた。

この組が4年生になった冬に私は早稲田大学への入学が叶つて袂を分ちたのであるが、お別れの記念に「立志」と題して将来の希望を書かせたところ賢治は
「お父サンの後をついで立派な質屋の商人になります。」
と書いた。巷間賢治を少年時代からの革命児であつた様に伝えられるのは恐らく誤りである。

後年彼の詩や童話がやや世聞の注目を引く様になった頃、汽車の中で賢治が私を捕まいてこんなことを言ったことがある。
「私に詩眼を開いて下さったのは先生の童話です。私の童話は根本は法華経から来ていますけれ共、先先の童話の臭のすることがお分りになりませんか。」
と、然るに恥しながら当時私が賢治の童話の一つも読んでいなかつたのである。今日時々読みかじっては見るが、この人の真価の知られるのはかなり後年に属するものの様に思われる。… (「稗貫風土記」(注3)より)

■ 明治40年(1907 20才) 2月、退職後上京し、早稲田大学入学
■ 明治42年(1909 22才) 同大学を卒業とともに、東京の開成中学併設の開成予備学校(わが国初の夜間中学)の教師となる
□ 明治43年(1910) 8月、日本、大韓(韓国)を併合、朝鮮と改称
□ 明治43年 花巻最初の新聞「花巻新報」が発刊される
■ 明治45年(1912 25才) 以降、長野県の中学校の教師等を転々とする
□ 大正3年(1914 ) 7月、第一次世界大戦始まる(~1918.11)

伝書鳩
平野健藏は私を伝書鳩と批評した。私は青年時代日本国中を方々転々したばかりでなく。或は職を求めて朝鮮に渡り、満州入りしたこともある。大体は教員の職であったから夏冬2回の休暇がある。この休暇を待ち兼ねて必す郷里に帰って来た。途中で道草などを食ったことが一度もない。九州の柳川に居たことがあるが70何時間かの汽車を乗りついで一目散に花巻に帰った。途中景勝の地などは勿論のこと、大阪にも東京にも足を入れなかった。別に何んの急用があるわけでもない。郷里に愛人があったわけでもない。自宅はアバラ家で雨漏りが烈しく、荒壁さえもついてない惨たんたる姿であった。それでも郷里は常に私のあこがれの的であり、私のエルサレムであり、私のメッカであった。アトで花巻に永住する様になってからこの夢は殆んど失われて了ったけれ共、それでも故郷に対する愛着の念には変りがない。… (「稗貫風土記」より)

■ 大正10年(1921 34才) 盛岡中学校の歴史の教師になる
□ 大正12年(1923) 9月1日、関東大震災
■ 大正14年(1925 38才) 9月、盛岡中学校から花巻高等女学校へ転勤(教諭)
■ 大正14年 11月、中学校創立推進のため花巻両町(注3a)の連合青年会が発足し、理事となる
□ 大正15年(1926 39才) 1月、夜間中学校の生徒を募集(応募者が100名超)
■ 大正15年(1926) 岩手国民高等学校講師兼任(「近世文明史」担当、1~3月)(注4)
■ 昭和2年(1927 40才)  伊藤セツと結婚
■昭和2年 8月25日、日刊「岩手タイムス」を創刊(社長平野健蔵、編集長佐藤紅歌)
■ 昭和2年 9月、女学校を退職、朝鮮に渡り羅南中学校の教員となる

…八木は、教鞭をとりながら、新聞を発行することにも奔走し、昭和2年、日刊『岩手タイムス』を創刊する。その創刊号に、八木英三は〔偶像の値〕という小論文を載せた。とんでもない事件がおこる。みずから、その経緯を〔花巻の新聞創草の頃〕に書いている。…

〔岩手タイムス筆禍事件〕  時の町長は梅津善次郎であったが町会の影の人物佐藤金次郎等が動いて第二の日刊新聞を計画したのは昭和2年であった。主として仕事を担当したのは私であった。盛岡銀行頭取の金田一国士や電灯会社専務の一戸三矢や盛岡金融界の一流どころが意外に力こぶを入れて呉れ花巻の大御所瀬川弥右衛門が尻を持って花々しく『岩手タイムス』を創刊したのがその年の8月25日であった。
所が端なくも創刊号に掲載された私記名の小論文「偶像の値」が当局の忌避に触れて発売禁止の処分を受けたのである。(中略)「偶像の値」は今考えてみれば何のへんてつもない論文でその頃どの学校にも建設されてあった御真影の奉安庫を偶像崇拝なりとして冷かしたり聊(いささ)か民主々義的な言辞を弄したにすぎなかったが、言論統制が八釜(やかま)しくなって来て居た時代であったからつい当局の眼にさわったものであろう(『花巻新報』S30.10.7付)。

…この筆禍事件で、八木は狭い花巻という世聞にいることが窮屈になる。八木の述べるとおり、「言論統制が八釜しくなって来て居た時代で」、世間の眼は、「戦争を好む」ちからに縛られはじめていたのである。
前々年の大正14年4月に、治安維持法が公布されていた。…
八木も、その宝刀によって断ち斬られたのである。八木は、やむなく、故郷花巻を離れて朝鮮に去った。
それは、花巻高等女学校を退職した昭和2年9月とときを同じくする。
八木が朝鮮にいた期間やそこでの生活の様子などは分からない。…(「岩手県の郷土紙物語」(注4a)より)

□ 昭和4年(1929) 4月10日、世界経済恐慌起こる
■ 昭和4年 朝鮮から帰郷し、印刷工場を経営する
□ 昭和4年 花巻連合青年会、花巻両町の合併を機に、花巻中学校の創立運動を起こす
□ 昭和6年(1931) 4月1日、岩手県花巻中学校開校(創立者:花巻町外17ヶ町村学校組合、校長:佐藤 昌)(注4b)
□ 昭和6年 6月9日、満州事変起こる
□ 昭和6年 凶作
■ 昭和7年(1932 45才) 二度目の満州旅行から帰国
□ 昭和8年(1933) 3月3日、三陸大津波
□ 昭和8年 賢治、死去(37才)
■ 昭和8年(46才)  及川晃等と「花巻史談会」を創立
■ 昭和8年 「最近の満州に使して」発行。(注6)

最近の満州に使して
…八木英三君は私の従兄弟であり、竹馬の親友である。子供の頃、「教育こそは君の天職だ。」と言ったら、「考えものだ。」と答えた。然し君は其後教育界にあまり容れられぬ教育家としてやって来ている。君には「生徒」が「門弟」であり、門弟にとって君は「教師」にあらずして「先生」である様に私は信じている。かく人を教えて人を作るのみならず、歴史、地理、英語、数学を授けてよく其真髄をつかませている。

昨夏、君は満州に遊んでさる人から、文教部の総務司長に推されたのであったが、遂に実現しなかった。満州国の文部省の局長にならずとも、君には一毫の増減する所はないのであるが、今此君が「満州国の正しき理解」を著わすことは偶然でないことを感じ、著者の為人(ひととなり)、過去から推して此書に十分の信頼を敢てしつつ、満州国というものの日本、東洋並びに世界に持つ意義と、八木英三君という人の片鱗とを述べて此書の序に充てる。… 金子定一(注7)

筆者の心
一、岩手県青年子弟の為に
昨年の夏、二度目の満州を見て帰ってから、何事か書かねば済まされぬもののあることを感じたけれ共、長い間まとまった腹案が出来なかった。超えて今春一月元旦、京都の島文次郎博士から貰った年賀状に「貴下最近研鑚の題目は何か」と訊されてあった。
博士は人も知る如く岩手県当初の県令、島惟精氏の嗣子であり、僕が関西浪々の当時恩顧を受けたのであったが、十年後の今日も尚思索的になにかコツコツと勉強しているであろうとの温い推測から、先生が此言をなされたものと思えば、今更私(ひそか)に赤面する次第であった。しかしその時突差に僕は次のように返事をかいた。
「満州国を正しく理解いたしたく、二回にわたりて彼の地に遊び、人にも会い、物も読み申候へ共、性来の驚鈍今尚成案を得ず、汗顔此事に御座候云々。」

この鞭撻によって僕は、所謂其の「成案」を急いだのであったが、結局はこう考えるようになった。
「この問題を全国の青年に呼びかけて、成された書籍は頗る多い、けれ共それがどれ丈けわが郷党子弟に読み込まれているかは頗るあやしい。加之(しかのみならず)これ等に関する質問を受けた時、一書にして要領をつくすようなものを推挙することが出来ない。この意味に於て僕の企画は地方的のものにしよう。」…

今日一通り満州国の事情を知ろうと思えば、少なくとも七-八円位の書籍代を支払うことが必要であろう。不景気岩手の青年子弟にそれをなすことは非常な負担であり、大部分の為には不可能に見える。そしてそれ丈けの材料が手に入ったとて、読みこなし、見つくすのがまた一通りの努力ではない。しかも其の結果が僕の「正しき理解」となるかは更に別個の問題だ。
不景気岩手であればこそ僕はこの企画に従事しなければならない。そして五-七十銭の安い値段で「満州国の正しき理解」を賦与したく思うのである。(「最近の満州に使して」より)

□ 昭和9年(1934) 岩手県、大凶作
■ 昭和10年(1935 48才)  日刊「花釜日の出新聞」を創刊(社長八木、編集長松田浩一)
□ 昭和12年(1937) 2月、岩手県下一帯大吹雪で惨事頻発
□ 昭和12年(1937) 7月、日中戦争起こる(盧溝橋事件)
■ 昭和14年(1939 52才) 「我等の先輩志士横川」発行(注8)□ 昭和15年(1940) 4月3日以前、「花釜日の出新聞」と花巻の他の2紙が合併し、「日刊いわて」が誕生する(八木は副社長)
■ 昭和15年(1940 53才)  この頃、東亜連盟花巻分会顧問となる
□ 昭和16年(1941) 12月8日、太平洋戦争始まる
□ 昭和16年 12月28日、「日刊いわて」が廃刊(形式上「新岩手日報」に買収)され、終戦まで花巻から郷土紙が消えた
■ 昭和17年(1942 55才) 4月30日、翼賛選挙、八木が応援した金子定一が当選
□ 昭和20年(1945) 8月15日、天皇、戦争終結の詔書放送

[補足]
(注1) 八木英三:私が八木英三を知ったのはちょうど10年前、2005年の夏でした。台温泉で旅館を営んでいる旧友のY君から「稗貫風土記 人物篇」の分厚いコピーが届いたのです。彼は、この本で紹介されている花巻の名士に私も興味があるだろうと思って、送ってくれたようです。しかし私は本書に書かれている人物はさて置き、著者である八木英三に関心が向いてしまいました。
そしてネットであれこれ検索しているうちに、八木英三を自分の前世であると固く信じている人を発見しました。ここではこの人を夢拓氏と呼ぶことにします。
夢拓氏は自分の前世を確かめるため花巻に何度も足を運び、八木英三について調べ、花巻のゆかりの地を見て回っています。
本稿に記した八木英三の年譜は、夢拓氏の作った年譜が元になっています。
詳しくは「夢拓:前世探訪」をご覧下さい。八木英三の顔写真も載っています。

本稿のタイトルを「教育者/新聞人/政治師・八木英三の終戦まで」としました。「教育者」と「新聞人」は良いとして、「政治師」とは何? 八木の政治に対する関心と関与を一言で何と言えば良いのか?「政治家」とは言えず、「政治屋」では気の毒。そして思い付いたのが「政治師」。「軍師」、「勝負師」、「山師」の「師」です。

(注2) 「まだ見ぬ親」:フランスの作家エクトール・アンリ・マロが1878年に発表した児童文学作品『家なき子』(Sans famille)の日本での初訳。明治36年(1903)に五来素川により『まだ見ぬ親』の題名で読売新聞に連載された。

(注3) 稗貫風土記 (第1巻) 人物篇:八木英三編・発行、1951.4

(注4) 岩手国民高等学校:「国民高等学校」は元々デンマークで創設された農民教育の機関。働いている農民が冬の農閑期に集まり、合宿で学ぶ教育機関である。
わが国では、大正の初めからこれが紹介され、昭和の初めにかけて、主として農村厚生のための農民教育の一形態として実施された。岩手県では、この岩手国民高等学校が最初にして最後の国民高等学校であった。
□□□主催者: 岩手県教育会、岩手県農会、他
□□□開設校舎:花巻農学校
□□□開設期間:大正15年1月15日より同年3月末日まで
当時花巻農学校の教諭であった宮沢賢治も講師を兼任し、「農民芸術」を担当した。そして3月末で農学校を退職している。

(注4a) 「岩手県の郷土紙物語 -敗戦後発行の県中南部の郷土紙-:昆 憲治著、1994.3.16発行、非売品
(注4b) 花巻中学校開校:開校前後の経緯は別稿で紹介します
(注5) 花巻市制施行記念花巻町政史稿」:八木英三著、1955.1 花巻郷土史研究会発行

(注6) 「最近の満州に使して」:八木英三著、S8.12 岩手日報社発行、B6版 309ページ、定価90銭。
目次: 筆者の心 / 第一編 満州国の路しるべ / 第二編 満州国の土と富 / 第三編 満州国の住民と政治 / 第四編 満州国と日本国 / 遺補
本稿冒頭の写真は、本書の巻頭を飾った満州国執政溥儀氏題字と岩手県知事石黒英彦氏題歌です。

(注7) 金子定一:明治18年(1885)生まれ。盛岡中学時代の友人に石川啄木がいた。号は磧鼠、香寧児。陸軍士官学校・陸軍大学校卒業後、歩兵第三十一連隊、金沢連隊区司令官、第八師団参謀、朝鮮軍司令官部、関東軍司令部、満洲国協和会首都副本部長、新京将校会会長、新京実務学校長と満洲で軍関係の要職を歴任する。昭和12年退役後は、県郷友連会長、奥羽史談会会長を勤めた。昭和17年衆議院議員に当選している。昭和35年に死去。

(注8) 我等の先輩志士横川:八木英三著、1939 花釜日の出新聞社発行

(2015.4.17掲/8.17改)

“教育者/新聞人/政治師・八木英三の終戦まで” への3件のフィードバック

  1. 大正末期から昭和初期の出来事を追加しました。

  2. [岩手タイムス筆禍事件]について追記しました。

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