稗貫郡消滅 -近・現代の稗貫郡-

平成の大合併の一環として、平成18年(2006) 1月1日に稗貫郡大迫町と石鳥谷町が和賀郡東和町と共に花巻市に合併し、新制の花巻市が発足しました。そして両町は稗貫郡から当然に離脱し、稗貫郡に属する町村がなくなり、同郡は「消滅した」と言われます。

官報 第4139号 (H17.7.21)
官報 第4139号 (H17.7.21)

「稗貫郡が消滅した」とはどういうことなのか!?
「稗貫郡の消滅」を直接に公示する文書はないようですし、「稗貫郡の消滅」を記念する式典なども聞いたことがありません。
思えば稗貫郡は、弘仁2年(811)に志波三郡(和我(わが)、薭縫(ひえぬい)、斯波(しわ)郡)のひとつとして立郡されてから平成18年まで、1200年近くの間連綿と受継がれてきた地名です。それが何のイベントもなく「消滅」してしまったのです!!

ところで、「稗貫郡」はそれまで公式にはどこでどう定義されていたのでしょうか?
地方自治法」に次のようにあります。

第二百五十九条  郡の区域をあらたに画し若しくはこれを廃止し、又は郡の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、都道府県知事が、当該都道府県の議会の議決を経てこれを定め、総務大臣に届け出なければならない。
 郡の区域内において市の設置があつたとき、又は郡の区域の境界にわたつて市町村の境界の変更があつたときは、郡の区域も、また、自ら変更する。
 郡の区域の境界にわたつて町村が設置されたときは、その町村の属すべき郡の区域は、第一項の例によりこれを定める。
 第一項から第三項までの場合においては、総務大臣は、直ちにその旨を告示するとともに、これを国の関係行政機関の長に通知しなければならない。(後略)
 (略)

本法は昭和23年1月1日に施行されたもので、本条は当時既にあった郡を前提にした規定のようですが、当時あった郡はどこで定義されたのでしょうか。
本条第1項に郡の廃止の定めはありますが、「郡の消滅」についての明文の規定はありません。2項の規定に「自然消滅」を含むのでしょうか。

■戦後の稗貫郡
・昭和23年(1948) – 稗貫郡内に3町11村あり。
花巻町、大迫町、石鳥谷町、
内川目村、外川目村、亀ヶ森村、新堀村、八重畑村、矢沢村、八幡村、湯本村、宮野目村、湯口村、太田村
・昭和29年(1954) 4月1日 – 花巻町・太田村・宮野目村・矢沢村・湯口村・湯本村が合併し、花巻市が発足。郡より離脱。
(郡内2町6村:大迫町、石鳥谷町、内川目村、外川目村、亀ヶ森村、新堀村、八重畑村、八幡村)
・昭和30年(1955) 1月1日 – 大迫町・内川目村・外川目村・亀ヶ森村が合併し、新制の大迫町が発足。
(郡内2町3村:大迫町、石鳥谷町、新堀村、八重畑村、八幡村)
        4月1日 – 石鳥谷町・新堀村・八幡村・八重畑村が合併し、新制の石鳥谷町が発足。
(郡内2町:大迫町、石鳥谷町)
・平成18年(2006) 1月1日 – 大迫町・石鳥谷町が和賀郡東和町と共に花巻市と合併し、新制の花巻市が発足。郡より離脱。(同日稗貫郡消滅)

■明治維新後の稗貫郡
〇慶應3年(1867) 12月 王政復古の大号令(明治維新)
〇慶應4年(1968) 9月 明治改元(一世一元の制)
〇明治2年(1869) 6月 諸藩主の版籍奉還を許し、各知藩事に任命
      8月 南部彦太郎(利恭)、盛岡藩知事(岩手・紫波・稗貫・和賀で13万石)
〇明治4年(1871) 7月 廃藩置県(3府302県)、盛岡藩を廃し盛岡県を置く
      11月 府県の廃合進み、3府72県となる
〇明治5年(1872)1月 盛岡県を岩手県と改称
〇明治5年(1872) 旧町村役人廃止と行政区画の区制による統一を命ずる布告が出され、大区・小区制が定着

岩手県の大区小区制
盛岡県(明治5年1月8日、岩手県と改称)では、明治4年11月、暫定的に県下が59区に区分され、翌5年6月3日、21区に改編された。そして区に区長・副区長各1名(以上、官選)、町村に戸長1名、副戸長若干名(以上、民選)のほか町人代・百姓代が置かれた。
明治8年1月14日、岩手県はそれまでの単一区制を大区小区制に切り換え、新しく17大区244小区を編成するとともに、大区と小区の中間に81の「扱所」を設け、大区に区長・副区長各1名、扱所に戸長・副戸長各1名,書役1~2名(以上,官選)、町村には40~80戸を1組とし各組ごとに組総代1名(民選)を置いた。小区は役人が配置されなかったので,有名無実の存在であったといえよう。なお,この明治8年1月の改編は…官選によって戸長・副戸長らに有能な人材を登用すること、さらには民費の節約をはかるのが大きな目的であった。
その後,明治9年4月18日の磐井県の合併,同年5月25日の宮城県気仙郡・青森県二戸郡の編入に伴い,岩手県は大区小区の区画を一部手直しして,県下の642町村を23大区119扱所276小区に分轄した。なお,区または大区と郡の関係については,明治冶4年11月および翌5年6月に編成された区は2郡にまたがる例がみられるが,明治8年1月以降の大区は原則として郡の区画をほぼそのまま継承している。
(井戸庄三著「明治初期の大区小区制の地域性について」より)

稗貫郡は、北上川の東側17村が第7大区、西側51村が第8大区とされた。

〇明治5年(1872) 政府、この頃「旧高旧領取調帳」の編纂に着手か

旧高旧領取調帳 (きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)  明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳。
取調帳には幕末時点での村名と当時の領主、および明治初期の各村の石高が記載されており、おおむね慶応年間から明治4年(1871年)頃までの実情を示す史料と見られる。

稗貫郡は幕末時点では陸奥国(明治元年12月に陸中国)に所属し、全域が盛岡藩領であった。取調帳に記載されている明治初年時点に存在した村は以下の68村である。
東宮野目村、下似内村、北飯豊村、上似内村、田力村、柏葉村、庫理村、葛村、黒沼村、西中島村、江曽村、八幡村、好地村、新堀村、八重畑村、滝田村、戸塚村、関口村、猪鼻村、五大堂村、東中島村、中寺林村、北寺林村、南寺林村、小森林村、松林寺村、大興寺村、長谷堂村、富沢村、糠塚村、北湯口村、大畑村、湯本村、台村、二枚橋村、西宮野目村、狼沢村、椚ノ目村、小瀬川村、金矢村、大瀬川村、太田村、西十二丁目村、外台村、南万丁目村、里川口村、下根子村、中根子村、上根子村、湯口村、西晴山村、下シ沢村、鉛村、豊沢村、円万寺村、膝立村、北万丁目村、花巻村、鍋倉村、矢沢村、幸田村、高松村、高木村、東十二丁目村、大迫村、内川目村、外川目村、亀ヶ森村

〇明治8年(1875) 7月 岩手県、庶務課中に地誌編輯係を置く(「岩手県管轄地誌」の編集)
〇明治9年(1876) 4月 数度の廃合を経て、現在の岩手県の県域が確定
〇明治11年(1878) 7月 郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則(三新法)制定

郡区町村編制法 左の通り定められ候条此旨布告候事
第一条 地方を画して府県の下郡区町村とす
第二条 郡町村の区域名称は総て旧に依る
第三条 郡の区域広濶に過ぎ施政に不便なる者は一郡を画して数郡となす 東西南北上中下某郡と云うが如し
第四条 三府五港其の他人民輻輳の地は別に一区となし其の広濶なるものは区分して数区となす
第五条 各郡に郡長各一員を置き各区に区長各一員を置く 郡の狭小なるものは数郡に一員を置くことを得
第六条 各町村に戸長各一員を置く 又数町村に一員を置くことを得
(第七条~第九条 省略)

日本の地方制度に関する太政官布告である。
それまでの大区小区制が廃止されて復活した郡は、本法に依り行政区画となった。
本法の施行にともない、稗貫郡役所が里川口村に置かれた。

〇明治22年(1889) 2月 大日本帝国憲法公布
〇       4月 市制・町村制(という名称の法律)施行

町村制施行  町村制施行により、岩手県は1市(盛岡市)21町219村に整理編成替えされ、稗貫郡内に次の3町13村が発足した。
花巻川口町 (旧・里川口村、南万丁目村、高木村の一部[字中河原])
花巻町 (旧・花巻村、北万丁目村、高木村の一部[字小舟渡])
大迫町 (旧・大迫村)
内川目村 (旧・内川目村)
外川目村 (旧・外川目村)
亀ヶ森村 (旧・亀ヶ森村)
新堀村 (旧・新堀村、戸塚村)
八重畑村 (旧・八重畑村、関口村、滝田村、猪鼻村、五大堂村、東中島村)
矢沢村 (旧・矢沢村、高松村、幸田村、東十二丁目村、高木村の一部[字中河原・小舟渡を除く])
好地村 (旧・好地村、北寺林村、大瀬川村、大興寺村、松林寺村、富沢村、長谷堂村)
八幡村 (旧・八幡村、中寺林村、南寺林村、江曽村、西中島村、黒沼村、小森林村)
湯本村 (旧・湯本村、北湯口村、大畑村、二枚橋村、台村、金矢村、小瀬川村、椚ノ目村、狼沢村、糠塚村)
宮野目村 (旧・東宮野目村、西宮野目村、葛村、田力村、庫理村、柏葉村、上似内村、下似内村、北飯豊村)
湯口村 (旧・湯口村、円万寺村、鍋倉村、膝立村、西晴山村、上根子村、中根子村、鉛村、下シ沢村、豊沢村)
根子村 (旧・下根子村、西十二丁目村、外台村)
太田村 (旧・太田村)hienuki_village1

〇明治23年(1890) 5月 府県制・郡制(という名称の法律)公布
〇明治27年(1894) 8月 日清戦争始まる(~翌年3月)
〇明治29年(1896) 6月 三陸大津波
〇明治30年(1897) 4月 岩手県で郡制が施行される(19郡が13郡に再編成)
〇明治32年(1899) 3月 郡制が全部改正される

郡制 (明治32年3月15日 法律第65号)
第一章 総則
第二章 郡会
第一款 組織及選挙
第二款 職務権限及処務規程
第三章 郡参事会
第一款 組織及選挙
第二款 職務権限及処務規程
第四章 郡行政
第一款 郡吏員の組織及任免
第二款 郡官吏郡吏員の職務権限及処務規程
第三款 給料及給与
第五章 郡の財務
第一款 財産営造物及郡費
第二款 歳入出予算及決算
第六章 郡組合
第七章 郡行政の監督
第八章 附則

第一章 総則
第一条 郡は従来の区域に依り町村を包括す
第二条 郡は法人とし官の監督を承け法律命令の範囲内に於て其の公共事務並法律勅令に依り郡に属する事務を処理す
第三条 郡の廃置分合又は境界変更を要するときは法律を以て之を定む
郡の境界に渉りて市町村境界の変更ありたるときは郡の境界も亦自から変更す 町村を変じて市と為し若は市を変じて町村と為し又は所属未定地を町村の区域に編入したるとき亦同じ
本条の処分に付財産処分を要するときは内務大臣は関係ある府県郡市参事会及町村会の意見を徴して之を定む 但し特に法律の規定あるものは此の限に
在らず
(第二章以下省略)

〇明治37年(1904)2月 日露戦争始まる(~翌年9月)
〇明治43年(1910)8月 大韓(韓国)を併合、朝鮮と改称
〇明治45年(1912)7月 明治天皇歿(61歳)、大正と改元
〇大正3年(1914)7月 第一次世界大戦勃発(~7年11月)
〇大正7年(1918)9月 原敬内閣成立(日本初の本格的政党内閣)
〇大正10年(1921)4月 郡制廃止に関する法律が公布される
〇大正12年(1923)4月 郡制が廃止され、郡会は廃止
〇大正15年(1926)7月 郡長・郡役所も廃止

郡制廃止
郡制によって郡長・郡役所と郡会が設置されたが、これら郡の経費すなわち郡費はすべて郡下の町村の負担であった。郡は府県と町村の中間の行政機関として重要な役割を担っていたが、同時に郡を経由することで町村事務は停滞・繁雑化し、また郡費は町村財政にとって次第に重い負担となった。それで郡制を廃止して町村行政の整理・緊縮をはかることが町村から要望された。…ついに1921年4月郡制廃止の法律が公布され、1923年4月1日をもって郡制を廃止した。これにより郡会が廃止され、郡道・郡橋など郡有財産は府県または町村に移管されたが、国の地方行政官庁として郡長・郡役所が存続した。1924年9月全国町村長会は郡役所廃止を決議し、政府もこれに抗しきれず1926年7月1日をもって郡長・郡役所を廃止した。
(Web版尼崎地域史事典「apedia」より)

〇大正15年(1926) 12月 大正天皇歿(47歳)、昭和と改元
〇昭和6年(1931) 9月 満州事変(~翌年2月)
〇昭和8年(1933) 3月 三陸大津波、被害甚大
〇昭和9年(1934)   この年大凶作
〇昭和12年(1937) 7月 日中戦争起こる
〇昭和16年(1941) 12月 太平洋戦争始まる
〇昭和17年(1942) 7月 全国一斉に地方事務所が開庁される
□          稗貫地方事務所が花巻町に設置 

地方事務所
…郡制・郡役所の廃止は、「中央集権的官治機構の末端としての郡の制約的存在が、県治の効率化と町村自治の伸張を妨げているという政党内閣の認識があった」が故に、行われたものであった。しかし…一方で、太平洋戦争時の戦時動員体制下において、「国政の浸透徹底」と県庁行政事務の「適実敏活ナル処理」を期するために、中間的行政監督指導機関として地方事務所が設置され、他方では、自治の本格的拡充をもたらした戦後自治改革においても、郡制・郡役所が辿った経緯とは大きく異なって、地方事務所は存続させられることになった。…
1942年7月1日に開庁された地方事務所は、設置数427と、郡総数514よりやや少ないものの、概ね各府県とも各郡に設置された。…そして、…戦時行政の指導監督にあたったのである。…
(森邊成一著「地方事務所の設置と再編 -郡制廃止後の郡域行政問題-」より)

〇昭和20年(1945) 8月 天皇、戦争終結の詔書放送

(1015.10.17掲)

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