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(改訂) 島の悪左衛門

(「岩手の民話」より)
(「岩手の民話」より)

花巻の南の島村に、むかし、悪左衛門という百姓がいました。ひじょうに小男ながら、負けずぎらいで有名でした。
悪左衛門に二人の娘がありましたが、その姉娘の方に縁談がまとまりました。
相手は、水押村の、これまた負けずぎらいで知られた名も同じ悪左衛門でした。その水押の悪左衛門から招待された島の悪左衛門親子は、さっそく出かけました。ちょうど十二月の寒いさいちゅうでしたが、悪左衛門夫婦も、二人の娘も、うすい夏の着物を一枚着たきりでした。はな水をたらし、青い顔をしながら、それでも胸を張って、四人が水押村に着くと、むかえに出た水押の悪左衛門は、これまた下帯一本だけという、きわめて涼しそうな姿でした。
そして、むかえ入れたへやが、寒中というのに、しょうじも戸もすっかりあけはなしです。
「お暑(あつ)ござんしよ」
といって出された食事は、昨夜から盛って一晩外でさらしてカチカチに凍らせたものでした。
しかし、島の悪左衛門親子は、ここぞとばかり、せんすを取り出してあおぎながら、このごちそうをすっかり食べてしまいました。
その翌年の夏、島の悪左衛門が水押の悪左衛門を招待しました。夏のまっさいちゅうというのに、家の戸はしめきり、カンカンと火のおきた火ばちを五つ入れ、食物も煮立てたばかり、酒も舌を焼くようなあつかんで、主人の悪左衛門夫婦は綿入れを四枚重ねて着ていました。
水押の悪左衛門は流れ出る汗をこらえて、この接待を受けていましたが、最後に熱い風呂をすすめられたとき、とうとう目をまわしてたおれてしまいました。
やがて気がついたとき、はな歌をうたいながら熱い湯に入っていた主人の悪左衛門から
「風呂に入れば治るから」
とすすめられて、とうとう「参りました」と頭を下げました。

大迫(おおはざま)の計沢(はかりざわ)に、菊沢伊兵衛という盗賊がいました。身のこなしが軽く、武芸の心得もあるので、ふつうの手段では捕えられそうにありません。そこで大勢の役人がつかわされることになりました。島の悪左衛門にもこれを手伝うようにと命令がありました。
悪左衛門は、伊兵衛くらいは自分一人で捕えてみせると、一人で先に計沢の伊兵衛の家を探して行きました。
「わしは島村の悪左衛門というものだが、このあたりを通りかかったので、おちかづきのためお寄りした。あいにく腹がすいたので、一飯おふるまいいただきたい」
伊兵衛も名のある盗賊ですから、本心を見抜きながらも、そしらぬ顔で食事を出しました。
食事がすんでから、二人は何気ない話をしながら相手の出方をうかがっていました。とうとう島の悪左衛門が、
「実はわしはお上の御用で、お前を召捕りに来た」
と切り出しました。
伊兵衛は顔色も変えず、うす笑いを浮かべながら、悪左衛門を見守っています。そこで悪左衛門が、
「お前も名のある仁(じん)、おめおめと捕まるまい。そこで何でもわしにできそうもないことをしてもらいたい」
といいますと、伊兵衛はにわかにワッハッハッと高笑いしたかと思うと、ヒラリと天じょうにとびあがりました。
「ハッハッハッ、おい、土百姓、くやしければここまで来てみろ、ハッハッハッ」
高い天じょうのはりにぶらさがりながら、伊兵衛は大声で笑いました。
ところが、その笑い声の終らぬうちに、悪左衛門のふところからきらめいた手裏剣(しゅりけん)が、一本、二本、はっしと伊兵衛の両うでに突きささりました。
ウ、ウ、低いうめきとともに、ドサリと土間に落ちるところを、悪左衛門はたちまちしばりあげてしまいました。

怪盗伊兵衛を捕えた功績によって、悪左衛門は伊兵衛の持っていた刀をさすことが許されました。
ところが、この刀が三尺五寸もあったので、小柄な悪左衛門は、刀の先に車をつけて引きずって歩きました。
見る人が「身のほども知らぬ長刀だ」と笑いますと、悪左衛門は、やにわにはいていた足駄(あしだ)を蹴り上げて、落ちてくるところをまっぷたつに切ってみせて、
「何が長刀だ。これを見ろ」
と、カんでみせたということです。      (二郡見聞私記より)
           (「岩手の民話」(注1)より)

この物語は、「東十二丁目誌」(注2)でも取上げられており、第四章「中世」 第十一節「村の伝説と伝承」 のなかに、「南部叢書」(注3)所収の「二郡見聞私記」(注4)から全文がそのまま引用されています。

しかし「岩手の民話」版(以下「民話版」という)と「南部叢書」版(以下「叢書版」という)では、物語の内容にかなりの異同が見られます。
(1) 民話版にある「夏の熱い風呂」の話が、叢書版には全くありません。
・この物語の原典である「二郡見聞私記」にない話が、なぜ民話版には載っているのでしょうか?「二郡見聞私記」には異本があった?それとも民話版の編者が書き加えた?
(2) 民話版では、叢書版にある盗賊を捕えた後の話がほとんど省略されており、盗賊の刀の行く末に全く触れていません。
・叢書版の編者の判断で省略したものと思いますが、この部分を省略しては物語の本筋が見えなくなるように思います。(後述)

「東十二丁目誌」に全文が引用されている、「南部叢書第9冊 二郡見聞私記」にある「島の悪左衛門」は次の通りです。

(「南部叢書」より)
(「南部叢書」より)

島村高畑と云(いう)所に悪左エ門という小百姓あり娘二人あり、姉を八兵衛妹を五郎兵衛と云(いい)けり。姉の八兵工仙台領水押村悪左エ門と言、是も同じく剛気の者なり、然るに右八兵エを女房にせんとて乞入(こいいり)けり、嶋の悪左工門大に悦びて早速挨拶に及び、十二月寒中に遣しけると也、扨(さて)悪左エ門出立には大帷子(おおかたびら)一重女房娘も同出立(いでたち)也、水押村悪左エ門方にては戸障子をひらき置壁を弦懸(つるか)け氷らせけると也、食物は皆前夜より盛り揃い置これも同じく氷らせ置けると也、悪左エ門女房娘八兵エ共に少しも込る気色なく扇子遣いして喰にけり。

扨又翌年六月土用中に使を以(もって)申遣すには、何も可(すすめるべき)ものとても無(これなく)候えども、此方へも御出可(たまうべし)と申入ければ、随分可参よし返答也。其日になれば家内の戸障子をたて込め、火鉢を数ケ所へ並べ置、食物酒迄も大にあたため、勝手の方にてはさいかちなんばんなど薪とす、其身は綿入を重ねて着し、浩然として饗応しければ、流石の水押悪左エ門もこれには僻易して帰りけるとなん。

又大迫計沢の内蒲菊沢伊兵衛という盗人あり、御上より捕手の役人被仰付(おおせつけられ)悪左エ門にも先立可罷越(まかりこすべきむね)仰付ければ、悪左エ門大によろこび、乍(おそれながら)右伊兵エ一人にて召捕参るべし、私へ被仰付下さるべしと願上ければ、願之通被仰付悪左エ門只一人伊兵エが家に尋行(たずねゆき)案内を乞内に入、悪左エ門申様拙者儀は嶋の悪左エ門と申者也、此辺罷通候(まかりとおりそうろう)故御近付のために参りたり腹中透候一飯御振舞可給という、伊兵エ心得たりとて飯を振舞ける、良有て悪左エ門申様、我等儀御上様より被仰付貴殿召捕に参りたり、貴殿も名を得たる仁なれば御嗜(たしなみ)の程見申度、其上召捕可申と云ければ、心得たりと飛上り、首を梁へふんばりこれへこれへという、悪左工門も透かさず手裏剣はっしと打ければ、たまり兼てぞ落にけり、悪左エ門手を取起し、役にも立ぬ嗜事我と一所に可参と打連来りその段申上ければ坂の下籠舎(ろうしゃ)仰付けると也。

右伊兵エ指料白鞘にて樺皮を以(もって)巻き柄は藤皮を以巻なり、直々悪左エ門に被下置ければ、御上より頂戴の刀とてそれより壱本刀指けるとなり、刀指身の無僕いかゞ成とて美人四郎といふ下人に足高草履を為持あるきける。其後伊兵エ死罪に相究り悪左エ門勝手に計らへと被仰付ければ坂の下の籠より引出し、今の中小路へ入口の石橋の辺にて悪左エ門伊兵エを抜打にしけるとぞ。

又あるとき悪左エ門町へ来り、舟場の辺にて乞食坐当(ざとう)道のかたわらに居り、旦那様何成とも下されという、悪左エ門申には小豆餅ならではなしという、座当どもその小豆餅好物也下されという、悪左工門さらば振舞んとて刀をぬく、同道の者いろいろ止めけれども、ケ様(かよう)の者は後生のためとて胴切にぞしたりけり、其怨霊さまざま崇りけれども、剛気の悪左エ門中々うけつけず、子孫へ崇りければ、五代目の八兵エ寛政年中参宮に登りし時、高野山において座頭の供養懇(ねんごろ)に弔いければ、夫より子孫に崇なしとぞ。

右八兵エ若名(わかな)五郎兵エという、寛延年中五郎名 御上へ恐れあり八兵エと改む、其子善八とて高木通馬肝煎を勤めける、右家に伊兵エが指たる刀悪左エ門頂戴しける故、善八家に于(いまに)あり、悪左エ門身の長ケ(たけ)四尺五六寸ありしとぞ、依(これにより)頂戴の刀鐺(こじり)に車を付指けると也、見る人大に笑い身にも応ぜぬ長刀何にせんとて嘲りければ、是見よとはきたる足高蹴上げ、ちゅうにて真二ツに切り、身に応せずとも手に叶たる刀なりとて、高言吐きてぞ歩行ける、右刀案の外なる下作物也、三尺五六寸もあり、鍔は丸く生海鼠(なまこ)透し指渡四寸程常に見ぬ大鍔也干今嶋村高畑善八が家にあり。
           和田甚五兵衛氏武 「二郡見聞私記」

叢書版を読んで、奇妙なことに気付きました。
冒頭で悪左エ門の娘の名前を「姉を八兵衛妹を五郎兵衛と云けり」とあり(この娘の名前自体が奇妙ですが)、後の方には「(五代目)八兵エ若名五郎兵エという」とあります。この名前の一致をどう解したら良いものか!?

この物語の時代と場所について:-
(1) 叢書版に「悪左エ門…五代目の八兵エ寛政年中参宮に登り」とあります。寛政は1789年から1801年まで。その4代前といえば、1代25年として100年前で、1690~1700年、元禄の頃に当ります。
「南部叢書」に記された解題によれば、「二郡見聞私記」は「恐らく文政(1818~1830)あたりに成ったものであろう」とのことです。

(2) この物語に出てくる地名は、島村高畑、仙台領水押村、大迫計沢、中小路、高野山そして高木通です。
・島村高畑  現代の地図や明治初期の「岩手県管轄地誌」を見ても、花巻の南の島村(現・花巻市東十二丁目)に「高畑」の地名は見当たりませんが、東十二丁目の現在の二ツ屋部落の北端辺りを指しているようです。(後述)
・仙台領水押村  現・北上市口内町飛沢(東十二丁目の南東約8km)。
・大迫計沢  現・花巻市大迫町(東十二丁目の北東約17km)の中と思われますが、「計沢」という地名は不詳。
・中小路  現・花巻市仲町、花巻城の南側で武家屋敷のあったところ。
・高野山  あの有名な高野山です。
・高木通  [近世稗和拾通略図]をご覧下さい。

悪左エ門や善八の子孫はどうなったか? 現存しているのか?…がずっと気になっていたのですが、先月博識の同級生・O君に聞いてみたところ、「M家がそうだよ」と言うのです。当主M君も小学校の同級生、早速訪ねて聞いたところを要約すると:-

(1) 悪左エ門の話がM家に現在まで連綿と語り継がれてきたわけではない。郷土史を研究していた古川安忠先生が悪左エ門の話を記した資料を見出し、それをM家と結び付けた。昭和21年頃のことで、その根拠になったのは「高畑」と「善八」。

東拾弐丁目村御領地大絵図面(部分、右クリックで拡大表示できます)
東拾弐丁目村御領地大絵図面(部分、右クリックで拡大表示できます)

(2) 物語に「嶋村高畑善八が家」とあるが、M家の屋号を「後高(うしろたか)」、東隣の家を「前高(まえたか)」といった。「高」が共通している。[ 嘉永6年(1853)の「大絵図面」(注5)を見ると「二ツ屋」の北側に「高」がある。現在の二ツ屋は曾ての高を含んでいると思われる。]

(3) M家の過去帳をみると、当家の当主は代々「善八」という名で、最後の善八は明治45年(1912)没、行年71才。

(4) M家の氏神「八雲神社」と今は分家の氏神になっている「薬師堂」の神様(仏様?)(注6)は、先祖がお伊勢参りの際に勧請したものと伝えられ、その時ご神体(ご本尊?)を入れて運んだ木箱が今も残っている。このお伊勢参りが物語に出てくる「五代目の八兵エ寛政年中参宮に登りし時」のことと思われる。

(5) 物語に出てくる大刀は残っていない。家財を片付けた時に気が付かずに捨ててしまったか、あるいは戦時中の金属供出で出してしまったものか。

民話にも柳田国男にも関心の無かった私には、このような物語がどのような経緯で成立し、なぜ語り継がれたのか、不可解でした。しかし何度か読み返しているうちに、次のような仮説に思い至ったのですがどうでしょうか。
(1) この物語は善八家に伝わる刀の由緒を語ったものである。
(2) この刀が大したものではなかった(「案の外なる下作物也」)ので、由緒書で箔を付けようとした。
(3) 冒頭の冬と夏の我慢比べの部分は、元々の物語にはなかった(刀の箔付けには関係がない)が、後で付け加えられた。新しく作られたというよりは、別にあった話が取込まれたのではないか(物語を賑々しくするために)。
(4) そしていつしか刀が失われ、それとともに物語も語り継がれなくなっていた。

根拠に乏しい仮説ですが、このとおりだとすれば「岩手の民話」は、物語の後半の大部分を省略しており、物語の本筋を伝えていないことになるのでは??!!

なお、この物語は「花巻の伝説」(注7)にも収録されています。

[補足]
(注1) 「岩手の民話」:深澤紅子・佐々木望編「[新版]日本の民話2 岩手の民話」(2015.4.15 未来社)
(注2) 「東十二丁目誌」:石崎直治著・発行 H2.2.28

(注3) 「南部叢書」:南部叢書(なんぶそうしょ)は、南部藩に関する主に江戸期の史料を収めた書籍。全10巻に索引巻を加えた11冊からなる。編著者は郷土史家の太田孝太郎(元盛岡銀行常務、岩手日報(旧)社長)。
南部叢書刊行会により1927年(昭和2年)- 1930年(昭和5年)にかけて出版された。岩手県を中心に青森県、秋田県の一部に及ぶ旧南部領内の、風土記、史料、地理紀行、詩文、伝奇、漂流記などの文献を収録している。
復刻版は1970年(昭和45年)に歴史図書社より出版された。
「二郡見聞私記」は第9冊に収められている。

(注4) 「二郡見聞私記」:10巻。南部藩士・和田甚五兵衛氏武の筆録。成立は文政の頃か。

二郡見聞私記 序
予が家世々廻村の主役なれば、道の遠近、山の高低、川の浅深、民の苦楽を察し、時に寄てはこれを上に告し、或は神社仏閣の縁起を見、又古老村叟の諺を聞、怪談霊異の数々をあまねく書集め、子孫の児童をして、その故実をさぐらしめんとなり。           文山 和田甚五兵衛氏武 誌

(注5) 稗貫郡東拾弐丁目村御領地大絵図面書上(写):嘉永6年(1853) 5月。大木家文書、島コミュニティセンター石崎文庫所蔵 (石崎文庫は石崎家から島区民会に寄贈された直治先生の蔵書です)。

(注6) 八雲神社と薬師堂:本稿冒頭の写真の左側が八雲神社、右側が薬師堂。
両方とも現在の建物は藤原金次郎によって建てられたとのこと。
「東十二丁目誌」には、「(八雲神社の棟札の1枚に)『奉牛頭天王宮』寛政二年(1790)六月吉祥日とあるが、創設の棟札であろうか」とあり、「島の悪左エ門」の「五代目の八兵エ寛政年中参宮に登りし時」と年代が重なります。
一方薬師堂については、由来書に「嘉承元年(1106)慈学大師之御開記也……享保七歳(1722)…御尊像ヲ奉納…」と記されていると述べられており、こちらは嘉承元年はさて置くとして、享保七年でも年代が数十年早くなっています。

(注7) 「花巻の伝説 -稗貫・和賀地方- (上)」:及川 惇著、S58.1.30 国書刊行会発行
 本書の「悪左衛門」は民話版に似た物語展開になっています。
全文はこちらをご覧下さい。

(2015.12.25掲/16.2.7改)

“(改訂) 島の悪左衛門” への8件のフィードバック

  1. 及川 惇著「花巻の伝説」について言及し、
    「中小路」の説明を変更しました。

    1. 「大変なお仕事」と言われると、面映いです。
      「島の悪左エ門」については、新しい知見が得られましたので、近々加筆修正するつもりです。

  2. 順番が逆になり誠に申し訳ありません。先日送付していただいた資料の御礼が遅くなり・・・・・・・有難うございました。
    このようにまとめた文書はわが家にはなかったので、大変貴重なものになりました。

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