近世稗和拾通略図

盛岡・八戸両藩において、藩政期を通じてみられる特徴の第一は、「通(とおり)」という独特の代官統治区域を設けていたことである。盛岡藩領は広大ではあったが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、生産力も乏しかった地方である。しかもそういう状況のなかに村落が点在していたわけであるから、他藩のように郡からただちに村を行政単位とするには不都合な面か多かった。そこで特別な地方行政組織「通」が考えだされた。この制度は、盛岡藩の場合、領内10郡587ヵ村を33通に分割し、1通1代官所を原則として25代官所としたという。通の数については時期によって異同があり、25通、25代宮所に固定するのは寛政4(1792)年以降のことであった。…(「岩手県の歴史」(注1)より)

近世稗和拾通略図

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〇 各通の区域は「邦内郷村志」(注2)に記された村名に基づく。
〇 後に、八幡通と寺林通は「八幡寺林通」に、二子通と万丁目通は「二子万丁目通」に、安俵通と高木通は「安俵高木通」に、鬼柳通と黒沢尻通は「鬼柳黒沢尻通」に統合された。
〇 上図の村界・村名は町村制施行(明治22年(1889))後のものである。

[補足]
(1) 「岩手県の歴史」:1999.8.26 山川出版社発行
(2) 「邦内郷村志」:年代:明和(1764~)~寛政(~1801)年間、筆者:大巻秀詮
大巻秀詮は、花巻の人で、盛岡藩に仕え各地の代官を歴任した。本書は、郡町村の石高、戸数、人口、社寺などが記され、藩内の地誌として詳細なものである。はじめは6巻であったが、松井道円の著と伝えられる和賀・稗貫二郡の郷村志を加えて、8巻として流布した。

(2015.12.13 掲)

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