昨年の年頭に「『東十二丁目誌』註解」を纏めてみようと思い立ち、これまでに「第1章 東十二丁目の地名」、「第2章 原始時代」、「第3章 古代」と「第4章 中世」を見てきました。
今年は昨年分の纏めを続けながら、「第5章 近世」と「第6章 むらの民俗」に進むつもりです。
第5章の構成は次のようになっています。
第5章 近世 (79~198ページ)
第1節 近世社会と幕藩体制 (概説)
・この節に、東十二丁目への直接の言及はありません。
・稗貫郡に関しては、稗貫氏の追放と北秀愛の花巻郡代就任が簡潔に述べられています。
・本註解で扱うのは、主に東十二丁目に関する事柄で、拡げても精々稗貫・和賀までとすることにしています。「東十二丁目誌」には岩手県史や日本史の通史的なことも含まれますが、私の及ぶところではありません。
第2節 近世年表
・天正19年(1591)から慶応2年(1866)までの43項目が表示されていますが、東十二丁目に直接関わるのは次の7項目です。
慶応6年(1601) 南部利直、岩崎の一揆軍を包囲…。此時東十二丁目照井玄蕃・筑後の兄弟、和田勢に加わり玄蕃陣没したり、と伝う
正保元年(1644) 円通山歓喜寺開創
元禄14年(1701) 仁兵衛堰(大堰)成る
天明元年(1781) 東十二丁目新川工事掘り始め、翌2年2月完成す
天保7年(1836) 飢饉、土蔵改めあり (古川(孫)文書)
元治元年(1864) 高木外2ヶ村の農民、開田計画に反対して騒動す
慶応2年(1866) 歓喜寺雲版成る(竪1尺3寸)
第3節 南部藩 (南部氏糠部五郡拝領、信直公盛岡城築城)
・本節に東十二丁目への言及はありません。
第4節 花巻城と北氏 (北秀愛郡代となる、北松斎郡代を継ぐ、花巻城の夜襲、岩崎合戦)
・「天正19年(1591) 南部氏は、稗貫・和賀・志和の3郡を与えられ、…南部氏から北秀愛(北信愛(松斎)の次男)に、和賀・稗貫8千石を知行地として花巻郡代とした。」とあり、知行地8千石の内訳に「東十二丁目村 326石2斗8升8合」と記されています。
第5節 代官統治と通(とおり)制 (代官統治、通制、安俵高木通)
・「代官統治」の項に「寛永元年(1624)花巻城代…支配地稗貫・和賀2万石…256石8斗3升3合 東拾二丁目村」とありますが、「石」とは何なのか? これまで読み過ごしてきた感のある「石高」の意味を吟味してみたいと思っています。
寛永11年(1634)の南部藩の表高10万石、内高20万石余(稗貫郡2万石余)と他書にありますが、どういうことなのか?そして当時の土地所有の実態、特に東十二丁目のそれについて知りたいところです。
・「通制」については、これまでにも取り上げてきました。(⇨「通・とおり -近世の稗貫・和賀郡-」、「近世稗和拾通略図」参照)
第6節 東十二丁目の村役 (村肝入役と老名役、組頭、その他の村役、歴代の村役)
・「村肝入(むらきもいり)役、書留(かきとめ)役、老名(おとな)役があり、郷村の三役といわれた」、「肝入の任命は代官からなされたものか、任期は何年かは分からない」とありますが、選任方法などもう少し追及してみようと思います。
第7節 3ヶ村用水堰 (開発と用水、三ヶ村用水堰の由来、用水堰の工事、用水堰の補修、運営組織の変遷、平野仁兵衛氏のこと)
・こちらも、これまでに何度か取り上げてきました。(⇨「二本の堰」、「東十二丁目の水利 – 堰以前 –」、「仁兵衛、堰を開く」、「堰を守る」参照)
・但し、よく理解できないままになっているところがありますので、再吟味してみるつもりです。
第8節 東十二丁目と新川普請 (奥州街道下欠込む)
第9節 洪水の苦難 (度重なる洪水、対応の状況)
・この2節では北上川の氾濫、洪水について、主に石崎先生が収集した東十二丁目の古文書を基に述べられています。これまで丁寧に読んだことがなかった節なので、元の古文書を参照しつつ読み直してみます。
第10節 村の凶作 (凶作続く、災害の記録、書留の中から)
第11節 土蔵御改の事 (天保の凶作、書留の中から)
・こちらも主に東十二丁目古文書から引用されていますが、解読文のみで解説などが付いていません。簡単な解説を試みるつもりです。
第12節 百姓騒動 (一揆発生の状況、坪役銭等反対、重税に反対、減税の願い上げ、用水堤普請出役に反対、再び堤普請出役に反対、和賀川普請の出役、御仮屋普請の出役、天保七年の強訴、鬼柳関所越境、歩付高割反対、用水堤御普請出人足反対、高木外二ケ村の開田計画)
・百姓一揆についてはこれまでに二度取上げました。 (⇨「高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆」、「稗貫・和賀、百姓一揆の郷」参照)
第13節 照井沼の田丹し (田丹しのお尋ね)
・何故「たにし」のためにわざわざ一節を割いたのか?「照井沼」については、「第4章 中世」の「第11節 村の伝説と伝承」でも取上げられています。
第14節 村境論 (論所の発端、論争の経過、解決へ)
・天明8年(1788)に発生し文化7年(1810)に決着した、北上川を挟む東・西十二丁目村の諍(いさか)いの記録です。これには北上川の河道変遷、新川の掘削、外台村という無住の村の存在が絡んでいます。
・外台村についてはこれまでにも取り上げましたが、何故無住の村が存在したのか?は分からないままになっています。 (⇨「稗貫郡外台村」参照)
・抑々(そもそも)近世における「村」とは何だったのか?
第15節 村の検地と租税 (検地の意味、太閤検地、近世の村の検地、天保の検地、検地結果の集計、知行所とその推移、村の租税、年貢高、御役金銭の上納、検見と修正)
・天保の検地の東十二丁目村戸別石高表が掲載されており、202戸について戸別の氏名・石高が分かります。これを詳しく分析すれば当時の東十二丁目村の様子がある程度分かるのではないかと一瞬思ったのですが、そう簡単ではありません。
・石高表に載っているのは本百姓の戸主の名前のみ。家族の事は分からず、その他に水呑百姓がおり、鍛冶屋とか酒屋などがあったかもしれず…。
「東十二丁目誌」だけで、当時の村の実態を知ることは無理と言わざるを得ません。
第16節 社寺の中興 (熊野神社、神明社、歓喜寺と東闘公園、島長根金比羅神社、兜神社、沼御前の堂、秋葉神社、馬頭観世音、小袋稲荷神社、天満宮、不動明王堂、山の神社、牛頭天王宮、薬師堂、稲荷神社、虚空蔵堂、大山祇神社、洗葉巻稲荷大明神、光嶋山威徳院萬川寺、寺跡)
・本節は前置きなどもなしに、いきなり熊野神社の紹介から始まります。本節の題名を何故「社寺の中興」としたのか?
第6章では、東十二丁目の暮らしについて、近世後期から戦前までのあれこれが取り上げられています。
第6章 むらの民俗 (199~242ページ)
第1節 民家 (住家、居屋敷、ドンヅキ、棟上げ、かや葺の屋根)
第2節 食生活 (米作りが食えぬ米、野菜は豊富、副食物、行事食、調味料、救荒食物と調理)
第3節 衣生活 (着物、働き着の種類、故事の着装、衣料としての大麻)
第4節 婚礼と葬儀 (婚礼、葬儀)
第5節 年中行事 (生活のリズム)
第6節 民間信仰 (村の信仰、参りの佛、かくし念佛、講、路傍の祈り)
[余談]
年が明けて、1月は遂に更新できずじまい。新年早々に母が亡くなり、その前後のあれこれでブログまで手も頭も回りませんでした。
やっと少し落着きましたが…
このブログの更新について、昨年までは月2回の更新を心掛けてきましたが、かなりしんどくなっていました。年令(とし)のせいなのか、家事雑事が増えたのか、それとも飽きてきたのか…
無理をしても長続きしないと思い、今年は月1回の更新で良いか…などと思っています。
(2017.2.4掲/3.16改)
天保の検地の東十二丁目村戸別石高表に掲載されている戸数を「192戸」から「202戸」に訂正しました。