本誌「第5章 近世」の「第9節 洪水の苦難」と「第14節 村境論」では「新川文書」(注1)がしばしば引用されています。本稿では「新川文書」の中の「普請願帳」から洪水後の普請願上2件を書き下し文(注2)で紹介します。
- 文化8年(1811)5月の御普請願い上げ
恐れ乍(なが)ら願い上げ奉り候(そうろう)事
北上川筋外台(とだい)、先年西十二丁目村街道へ水先突懸(つっかか)り、川筋悪(あ)しく相成り候に付、安永年中(1772~1781) 新川御堀替え(注3)成し下され、夫れより川筋東へ斗(ばかり)水先突懸り、連々洪水の度毎自然と当御村の内、川に又々罷(まか)り成り、当御村の畑地少なからず川欠けに罷り成り、其の筋の地主共迷惑至極に罷り有り候所、猶又当春雪代水(ゆきしろみず、雪解け水)並びに五月七日の洪水にて少なからず川欠けに罷り成り、御地面御座無く候所、御高役相勤め、其の筋の地主共潰(つぶれ)れに至り申すべきより外御座無く、迷惑至極に存じ奉り候。
重畳(ちょうじょう)恐れ多き願い上げ様に存じ奉り候得共(そうらえども)、御見分の上欠け幅の所並びに川除の御普請成し下れたく、恐れ乍ら願い奉り候。御慈悲の御了簡を以て願の通り御普請仰せ付けられ成し下し置かれ候はば、一統御百姓共有難き仕合せに存じ奉り候。願いの通り仰せ付けられ成し下し置かれたく願い上げ候。以上。
□ 文化八年(1811)未五月 御百姓地主共
□ 老名
□ 肝入 孫左ェ門
□ 儀俄保兵衛様
□ 小栗権左ェ門様
□三千九百六十七人御支配所出
□仰せ付けられ候
- 文政五年(1822)五月の御普請願い上げ
恐れ乍ら願い上げ奉る事
高木通東十二丁目村の内、北上川筋外台東側、先年より畑地大増し川欠けに罷り成り申し候に付、前々より数度御普請も成し下し置かれ候得共、弥増(いやま)し川筋悪しく罷り成り、止む事を得ず欠け込み申し候間、去る酉年(文化10年(1813))御見分の上、右川欠け場所御引き高も成し下し置かれ、尤(もっと)も御普請の儀、共に仰せ付けられ下し置かれたき旨、恐れ乍ら願い上げ奉り候所、御見分成し下され候上、八幡寺林通・二子万丁目通・安俵高木通・鬼柳黒沢尻通御割合の御人足を以て、去る酉年より亥年迄三ヶ年中御普請仰せ付けられ下し置かれ候間、酉・戌両年と御普請成し下し置かれ候所、其の後亥年御普請の分御延引にて、御取付けさせ下し置かれず。
然る所同年(文化12年(1815))七月洪水にて御普請所は勿論、外に共に大増しの欠込みに相成り、地主・御百姓共迷惑至極に存じ奉り候。隋而(したがって)文化十三年(1816)八月相延し難き所ばかり御見分の上、前々通り八通御普請願上げ奉り候所、願の通り仰せ付けられ有難き仕合せに存じ奉り候。
然る所同年御普請、翌寅年(文政元年(1818))雪代水より段々洪水の度毎大増しの欠込みに相成り、自普請に相及び兼ね候に付、止む事を得ず御見分の上前々の御振合いを以て八幡寺林通・二子万丁目通・安俵高木通・鬼柳黒沢尻通御割合の御人足を以て御普請仰せ付られ下し置かれたき旨願上げ奉り候所、願の通り同年十一月仰せ付けられ有難き仕合せに存じ奉り候所、脇御官所御普請所も数ヶ所これあり、且つは冬分の事にも之有り候得ば、川御普請の事故(ことゆえ)御人足難儀も仕(つかまつ)るべきと思(おぼ)し召し下し置かれ、指延(さしの)べ難き御場所の分ばかり、安俵高木通御割合の御人足の分にて御普請成し下され、八幡寺林通・二子万丁目通・鬼柳黒沢尻通御割合御人足の分は去る卯年・辰年と二ヶ年の出人足に成し下され、其の節願い上げ奉り候ヶ所の通り御普請出来栄え成し下し置かれ有難き仕合せに存じ奉り候。
然る所去る巳年(文政4年(1821)雪代水より段々洪水の度毎大増しの欠込みに相成り、御普請所の岡土手等も危く、万一欠込み候ては、照井沼御新田並に上下御本田共に水損に罷り成り申すべきと存じ奉り候間、当年御普請成し下されず候ては、此の上如何様の欠込み申すべきも斗り難く存じ奉り候間、御時節柄恐れ入り存じ奉り候得共、先ず以て右の御場処御代官様御立合い御見分の儀願上げ奉り候所、早速御見分成し下され有難き仕合せに存じ奉り候。
隋而(したがって)御人足仕様積並びに絵図面共に相添え差上げ候間、御慈悲の御憐憫を以て此の度も前々の通り八通御割合の御人足を以て御普請仰せ付けられ下し置かれたく、恐れ乍ら此の段願い上げ奉り候。已上。
□ 文政五年(1822)午五月
□ 東十二丁目村 老名 勘助
□ 同 藤助
□ 同 半十郎
□ 同 長八
□ 同 孫左ェ門
□ 同 与惣治
□ 同 肝入 藤右ェ門
□ 神 匡 様
□ 田鎖要之亟様
[補足]
(注1) 新川文書:詳しくは「高木新川佐藤家文書」。新川文書中の東十二丁目に関するものは、元々は東十二丁目の古川孫左ェ門家に伝わったものでした。孫左ェ門家は東十二丁目の古川一族の総本家で、肝入などの村役人を度々務めた旧家でしたが、大正末期に一家を挙げて南米ブラジルに移住しました。その際に古文書等も家財と共に売払われ、その一部が新川佐藤家に引取られたもののようです。
新川佐藤家の「新川」は、本稿の「新川」とは別もので、17世紀後半に花巻城下で行われた北上川変流のための新川開削に因んだ屋号です。この工事で佐藤家が御作事所(現場事務所)に充てられ、当主万右衛門は人足頭の一人となって、工事完成後その功により苗字帯刀を許されました。
孫左ェ門家文書の一部は東十二丁目の多田家にも買い取られましたが、多田家の現当主によれば 「価値ある文書として入手したわけではなく、焚き付けか襖の下張りにでもするつもりだったようだ」とのことでした。
(注2) 石崎先生の翻刻文(原文筆写)を元に書き下したものです。
(注3) 新川御堀替え:「普請願帳」の他の文書(天明2年(1782)2月付)には、「…天明元年十一月堀初め…翌年寅年迄相懸り堀究め…」とあり、本誌にはこちらが紹介されています。
(2018.3.31掲/4.10改)
「新川文書」(「高木新川佐藤家文書」)について補足しました。