「東十二丁目誌」註解覚書:伊勢無尽講と伊勢参宮

「東十二丁目誌」の「第6章 村の民俗」/「第6節 民間信仰」の中で、「講」について述べられている。近世から近代そして現代まで続いた宗教上の講、8講について解説されているが、その一つが「伊勢講」である。

伊勢講(十六日講)  皇室の氏神である伊勢神宮に参拝するもので、神明社(注1)の講中では享保20年(1735)に伊勢無尽を開き、元文元年(1736)から2名づつの代参を行っており、大木家には詳細な道中記が残っている。》

しかし、石崎先生が作成した「東十二丁目古文書目録」には大木家文書として543件の文書が記されているが、その中に「道中記」に類する名称の文書は見当たらない。「伊勢無尽帳」などの伊勢無尽講関係の文書は多く載っているのだが…。

(1) 伊勢参宮の実態
陸奥国稗貫郡の東十二丁目から伊勢神宮までの旅はどのように行われたのか? 本誌の記述は前記した数行だけである。しかし幸いなことに、平成10年に発行された「神明社 -花巻・島地区の鎮守-」(注2)(以下「神明社本」と略記)に詳しく述べられているので、その中から要点を抜粋・転載する。

《無尽講が結成された目的は、伊勢参宮を果たすことでしたが、講中47名(のち32名に減少)が全員三重の伊勢神宮まで出掛けることは不可能で、数人ずつ交替で出掛けたようです。寛延2年(1749)の「無尽仲間申し入れ書」によりますと、享保20年(1735)の結成から14年間で参宮を果たしたのは8、9人とあり、無尽講の規約では参宮する者は2人で、各自へ1人7貫文ずつ渡し、早春に立つことが決められていました。

参宮に旅立つに際し、伊勢神宮への初穂料300文を奉納することが託され、一人一人に対し「往来証文」が交付されました。この証文はいまの身分証明書に相当するもので、最寄りの寺社から交付されました。旅費や初穂料と一緒に、肌身離さず携帯していきました。(なお、東北地方が天明の飢饒に襲われた時でさえも、この初穂料はきちんと奉納しております。) 準備が整った段階で、道中の安全と無事帰還を祈願して身を清めたものと思われます。現在の住吉神社・塩竈神社は江戸時代「祓殿」と呼ばれたのは、あるいはお伊勢参りに出掛ける人々が籠もる場所としても利用されたことも考えられます。

当時の旅行は、ほとんど徒歩の旅行でしたから、3ヵ月程度はかかったものと思われます。安永10年(1781)1月9日に出発した忠七らは、4月3日に戻っていますから、ほぼ3ヵ月を要したことになります。神明社では、伊勢への道先案内を内宮御師(おんし)(注3)荒木田氏にお願いし、その手配で初穂料を奉納し参拝を済ませたようです。明和7年(1770)には、「内宮永代神楽講中札」を2枚交付されていますから(コピー掲示)、内宮への結び付きが一層堅固になったものと思われます。

内宮永代神楽講中札

当時伊勢参りと西国三十三観音や善光寺の巡礼がセットとなっていた事例が多く見られましたが、東十二丁目村から伊勢神宮の参拝を済ませた後のことは、残念ながら不明です。
参考として、立花村湯沢(注4)の医師嶽間沢玄安(当時22歳)が文政6年(1823)伊勢参宮を果たしたときの日程を挙げます。東十二丁目村の方々が参拝にたどった道は、玄安がたどったコースとあまり違わなかったと思います。

黒沢尻・鬼柳・金ケ崎・水沢(11月26日)⇒松島(同晦日) ⇒塩竈・原町・仙台(12月1日) ⇒亘理(同2日) ⇒水戸(同5日) ⇒中湊(同9日) ⇒鹿島(同10日) ⇒江戸・馬喰町(14日~15日) ⇒戸塚(同17日) ⇒小田原(同19日) ⇒鳳来寺(同25日) ⇒松阪(同29日) ⇒内宮(同大晦日、泉館太夫家に宿泊し、元旦参詣、翌2日は岩戸参詣) ⇒三浦・馬瀬(1月4日) ⇒新宮(同6日) ⇒那智山(同7日) ⇒熊野本宮(同8日) ⇒高野山(同15日) ⇒奈良・西大寺(同19日) ⇒大坂(同20日) ⇒伏見・西京(同22日) ⇒姫路(同29日) ⇒丸亀月(2月2日、金毘羅山参詣)

奥州街道を南下し、太平洋岸の亘理を経由して水戸に入り、鹿島神宮の参拝をすませております。江戸には2日滞在、東海道を西に向かい、伊勢神宮には大晦日にやっと着き、元日に神社に参拝しております。伊勢参りの後、高野山や熊野権現、四国の金毘羅山まで足を運んでおり、大変な日程だったと思われます。立花村に戻ってきた時期は不明ですが、三月初旬あたりかと思われます。

無事参宮を終えて村に戻ってきますと、伊勢神宮のお札(ふだ)や、その年の暦などをお土産に、道中の苦労話を交え、「ハバキヌキ」(注5)と称して講中で盛大に祝ったと言われております。

ここで、先祖の労苦を偲ぶため、「伊勢参宮無尽帳」に記載された中から、江戸中期から後期にかけ参宮を果たした人名を列挙します。旅費が手渡された時期は12月が多く、出発は翌1月早々には出発していったと考えられます。中には、金額が半分であったり、3月や6月に出発した人達もいました。

年代         参宮者名 ()は経費
寛延2年(1749)12月  主殿(7貫文)・惣兵衛(同上)・孫助(同上)・平十郎(同上)
宝暦7年(1757)12月  清左衛門(7貫文)・甚九郎(7貫文)
同9年(1759)12月  与七(7貫文)・藤四郎(2貫文)
…(中略)…
弘化2年(1845)7月立  村屋敷久蔵子供の覚之丞(7貫文)・同久之助子供の周次郎(同上)・同久七子供の松之助(同上) 》

(2)伊勢参宮補遺
1) 参宮者人数(寛延3年(1750)~弘化2年(1845))
神明社本に江戸中期から後期にかけて参宮を果たした人の名前が掲載されているので、そこから年代ごとの参宮者数を纏めてみた。

年代 (西暦) 人数 経費(講支出分) 備考
寛延3年 (1750) 4 28貫文
宝暦8年 (1758) 3 14貫文
  10 (1760) 2 9貫文
  12 (1762) 1 7貫文
  13 (1763) 2 14貫文
  14 (1764) 1 7貫文
明和2年 (1765) 2 15.058貫文
  6年 (1769) 3 42貫文
安永10年 (1781) 8 56貫文 1/9~4/3
天明9年 (1789) 4 21貫文、金1歩 (注)
寛政2年 (1790) 1 金2歩 (注)
  6 (1794) 2 21貫文
  8 (1796) 1 7貫文
  9 (1797) 1 3.5貫文
  10 (1798) 1 7貫文
  11 (1799) 4 19.5貫文
  12 (1800) 4 28貫文
享和2年 (1802) 1 3.5貫文
文化3年 (1806) 1 7貫文
  5 (1808) 1 7貫文
  7 (1810) 2 14貫文
  8 (1811) 4 28貫文
  12 (1815) 1 3貫文
文政4年 (1821) 1 7貫文
  6 (1823) 5 35貫文
  8 (1825) 1 7貫文
  11 (1828) 3 17.5貫文
  12 (1829) 1 7貫文
天保4 (1833) 2 14
  7 (1836) 1 7
  15 (1844) 4 28
弘化2年 (1845) 3 21
合計 (96年間) 75 505.058貫文
金3歩

(注) 当時の江戸の銭相場で、金1分(歩)≒1.5貫文

 2) 伊勢参宮の費用
・神明社本に、無尽講の規約により参宮者には1人7貫文ずつが渡され、また初穂料300文を奉納することが託された、とある。
・伊勢参宮の費用はこれだけで間に合ったのか。この外に各人の個人負担とか餞別などもあったと思われるが、関連する資料は見当たらない。
なお当時は餞別の半分程度が土産の購入に充てられたようである。
・神明社本の付録に「史料 神明社文書」として古文書の書下し文が載っており、その中に「伊勢神明御無尽勘定目録」全5通がある。これは無尽の年度決算報告書のようなものだが、各通に「伊勢参宮渡銭」が記されている。それによれば、無尽が結成された享保20年(1735)から天明4年(1784)までの50年間に213貫58文が参宮者に渡された。一人7貫文とすれば30人分であり、規約にある「二ヶ年ニ二人ずつ」に比べるとかなり少ない。
・「伊勢詣と江戸の旅」(注6)によれば、当時の旅籠屋代は1泊2食付で100文から200文程度。1泊100文としても3ヶ月90泊で9貫文、旅籠屋代だけで無尽講からの7貫文では足が出る。
・伊勢神宮滞在中の費用はピンキリだったであろうが、東十二丁目村から来た参宮者はどのように過ごし、如何程の銭を使ったものか。「300文の初穂料」だけではいかにも少なく思えるのだが…

3)伊勢参宮は個人旅行、それとも団体旅行?
・先に掲げた「参宮者人数」の表に見るように、各回の参宮者は1人ないし数名であった。彼らは彼らだけで旅をしたのか、それとも近在の村からの参宮者と一緒の団体旅行だったのか?
神宮の御師(おんし)が募集し、御師に引率された団体旅行だったのではあるまいか、と想像してみたのだが、残念ながらこれを裏付ける史料を知らない。
・「高木村の歴史」(注7)によれば、隣村の高木村から文化3年(1806)に32人、嘉永元年(1848)に18人が伊勢参りに出立した、との記録があるという。
文化3年には東十二丁目村の講からも1名が参宮に出ているが、これは高木村から出立した32人の中の1人なのかもしれない。

「伊勢参宮名所図会」(注8)より「内宮宮中図」
(右クリックで全体を拡大表示できます。)

(3) 無尽講の結成と活動
無尽講は伊勢参宮のためだけのものではなかった。この無尽講の結成と活動について神明社本に次のように記されている。

《伊勢無尽講は、一般的には「伊勢講」または「神明講」と呼ばれ、三重の伊勢神宮に参拝することを目的に結成された無尽講です。室町時代以降、各地で無尽講が結成され、伊勢神宮のほか、出羽三山や信州の善光寺、熊野詣で、西国三十三観音巡礼が盛んとなります。これは、日常生活に起こるさまざまな不安や悩みを、それぞれの神仏の御加護によって祓い清めようとしたものでした。とりわけ伊勢神宮は一生に一度は参拝したいと願う神社として、当時から有名な神社でした。…
講中に参加した全員が参拝するのが理想でしたが、大抵は2、3人の代参がほとんどでした。これは、全員の参拝では膨大な旅費となること(神明社の場合は、大体1人7貫文ずつ)、そして農閑期とはいえ、大事な働き手が3、4ヵ月も家を空けると、何かと支障を来す恐れがあったからでした。遠い距離を何ヵ月もかけて旅行を共にする中から、参宮の経験者はもとより、講中の仲間には強い絆が生まれ、親から子へとこの絆が受け継がれて行きました。

わが神明社の場合は、伊勢参宮を果たすことはもちろんですが、天文17年(1548)に勧請して以来大破した神社の再建を行うことこそが早急の課題でした。東十二丁目村の内外に呼びかけて賛同者を募り、その出資金によって、まず神社を再建し、維持管理につとめながら、講中から数人を選んで伊勢へ参拝者を送り出したのでした。享保20年(1735)東十二丁目村御蔵百姓(注9)を中心に、47名によって結成されました。…

規約に触れますと、全6ヵ条からなるもので、ここに全文を引用します。
 伊勢無尽之吟味之事
 一 何儀成るとも無尽之仲間中ニ相背き申すまじき事
 付(つけたり)一人切りニ若し相背き候ハバ、右
 之出銭覚えニ仕り、早々相貫け(抜け)申すべき
 筈ニ、皆々吟味仕り候
 一 参宮立つ事
 但し、明年より二ヶ年ニ二人ずつ、年増し段々相
 立つ申す筈、吟味仕り候
 一 参宮ニ銭相渡し申す事
 但し、一人ニ付七貫文ずつ相渡す筈、吟味仕り候
 一 伊勢宮立て奉る事
 明春早道相立て申す筈、吟味仕り候
 一 出銭ハ左ニ記す通り、相違御座無く候
 一 人数も左ニ記す通りニ御座候
 左之通り吟味仕り候間、若し相背き申す者ハ何時
 成るとも、右皆々之吟味之通り相貫
 け申すべく候、以上
 (以下省略)

参加者の中には、東十二丁目村の村内で肝入や組頭(くみがしら)、古人(こにん)をつとめていた人々が参加していて、…このほか、川口町や隣の更木村、高木村の者も含まれていました。無尽講への出資金は、多い方で4貫5百文、最低でも2貫文以上を1人1口として出資していただき(2人で1口もあります)、合計で125貫8百文余り集まりました。…
無尽講に参加したメンバーは、寛延元年(1748)頃までは…計47人でしたが、次第に減少し、宝暦10年(1760)頃には32人となりました。…

この資金を元手にして、無尽講結成後13年に当たる寛延元年(1748)に神社の再建を果たしました。これ以後も引き続き、無尽講によって神社の修復や再建が進められ、伊勢神宮への代参が行われました。また出資金の一部を使って田畑を求め、講中の共同所有地として小作に出し、その収穫を金銭に変えて参宮の経費に流用しましたし、村の内外の人々の求めに応じて貸与し、元金が目減りしないよう配慮したとも言われております。毎年暮れには経理を済ませて、(その目録を)神社拝殿に別当らの連名で奉納していた模様で、…

宝暦12年(1762)拝殿などを南向きに建て替えましたが、これを契機に、神社の維持管理について、講中で改めて誓約を結び、…7ヶ条にわたる条項が取り決められました。参加者が32名になったあたりから、講中の各自が持ち回りで別当をつとめることにしていましたが、神式の儀礼を熟知する必要から、宝暦10年に川口町の平賀主水が仮神主に就任しました。平賀主水は和久屋という商家で、商売のかたわら京都の白川家の門人となって、神道の造詣が深かったことから、講中の多数がその門人になりました。…

弘化2年(1845)には講の仲間は17名で宝暦年中のほぼ半分となり、翌年3月無尽講を一旦解散し、残っていた16人で新たに十六人講を結成しました。3人の頭を立てて神社の維持管理に当たりました。明治時代に入り、規模や氏子数の調査によって、神明社はその社格が諸社(無格社)とされました。伊勢神宮の内宮を勧請した由堵をもつ神明社にとって、この扱いに不満があったようで、明治41年(1908)3月村社昇格願いを申請しますが、却下されました。…

大正12年(1923)7月、文政5年の再建以来100年を経過した神社の再建が取り上げられ、村社への昇格を図ることも含め、無尽講が再開されました。昭和8年(1933)の再建を果たしたのち、昭和19年に念願の村社に昇格することができました。
この時点で、これまでの十六人講を廃止し、熊野神社(注10)の総代らと協議して東十二丁目の8区域から、神明社の氏子区域として(東十二丁目の南半分の)二津屋・穂貫田・下の3区域を譲り受け、十六人講の頭3人を総代とすることに決めました。平成3年には地区の総代を3人ずつ(加え)、計12人に増やして、現在に至っています。》

[補足]
(注1) 神明社:通称 おいせさん、鎮座地 東十二丁目第23地割103、祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
(注2) 「神明社 -花巻・島地区の鎮守-」:編集代表 大木直義、H10.9 神明社社務所発行
・本書のあとがきに「この記念誌の編纂は、講中であった大木常三氏、石崎直治氏が代々伝わる文書をすでに纏められており、編集作業が大変捗ったことは、お二方の功績であり、…」とある。石崎先生は本書の発刊される4年前、平成6年3月に逝去された。享年 82。

(注3) 御師(おし/おんし):特定の寺社に所属して、参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する。
本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職をも指すようになった。

江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達した。特に伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。例えば、伊勢御師の手代が全国各地に派遣され、現地の伊勢講の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った。同様のことは各地で行われ、中世から近世にかけて、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続や譲渡・売買が盛んになり、勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集中した。
伊勢御師を太夫ともいい、全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったという説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。

明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退する。明治2年(1869年)に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに、御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。明治4年(1871年)には御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入され、百姓や宿屋経営などに転じていくことになる。

(注4) 立花村湯沢:現在の北上市湯沢、神明社の南南東約4.5kmに位置する。
(注5) ハバキヌキ:脛巾脱、「脛巾」は脚絆のこと。「脛巾脱」は、長旅から帰って脚絆を外し楽になるの意から、長旅を終えた後の慰労会。
(注6) 「伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段」:金森敦子著、文春新書375、H16.4.20発行
(注7) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行
(注8) 「伊勢参宮名所図会」:寛政9年1797に京都・大阪の版元から刊行された本編5巻6冊、附録1巻2冊、合計8冊からなる伊勢参宮の案内書で、数ある案内記や道中記の中で最も詳しい決定版ともいえるものである。作者は明確ではないが、秋里蘺島・秦石田の著述、蔀(しとみ)関月・西村中和の作画と考えられている。
(注9) 御蔵百姓:知行地ではなく、藩直轄の御蔵入地の農民
(注10) 熊野神社:通称 くまのさん、鎮座地 東十二丁目第12地割37-2、祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)、大須美命(おおすみのみこと)

(2019.6.11掲)