秋葉組文書から

「東十二丁目誌」註解覚書: 両から円へ

明治4年(1871)5月に新貨条例が公布され、円・銭・厘を単位とする新貨幣制度が発足しました。しかしこの新制度が東十二丁目にどのように浸透していったのか、本誌(1)に特段の記述はありません。
幸い「花北の歴史を学ぶ」(2)という冊子に「貨幣の変化」と題する一文があり、ここいらへんの事情が書かれていましたので、以下に転載します。

この中に《島(東十二丁目)の附近では明治15年(1882)から円・銭・厘が使われていた》とありますが、疑問が残ります。文末の注記をご覧下さい。

■貨幣の変化
(「花北の歴史を学ぶ」(H30.2.28 花北地区コミュニティ協議会発行)より)

藩制時代には両・分・朱・文あるいは丁銀・豆板銀のようなお金が流通していたが、明治時代に入ると新しい貨幣が発行された。
花巻地方ではいつ頃から円・銭が流通したのであろうか。それにはまず、新貨幣がどのようにして造られたかを少し書いてみたい。明治2年(1869)3月、新政府は新貨幣の下調査をして、新貨幣を海外の状況に合わせて円形とし、それまでの四進法(4朱で1分、4分で1両)をやめて、十進法とし、銀をもって本位貨幣としたのである。…

この頃、米国に用事があって行っていた伊藤博文から「世界の大勢は、いま銀から金に移行しており、”金”が貨幣制度の基準となる貨幣になっている。日本もそのようにしないと世界に遅れるぞ」と云ってきた。
しかし、東洋の諸国はすべてに銀本位制であり、これを無視することは非常に困難でもあったので、そのために実質的には金・銀本位制をとり、1円をもって基本貨幣としている。…

明治4年(1871)5月10日、新貨条例が公布され、わが国の貨幣単位は円、銭、厘の単位に正式に決定した。金貨、銀貨、銅貨の発行された年を表にしてみる。

明治3年 明治4年 明治5年 明治6年
金貨 20・5・2円 10・1円
銀貨 1円
20・10銭
5銭 50銭
銅貨 2・1・半銭
1厘

これを見てみると、金貨、銀貨の発行が早く、銅銭の2銭、1銭、半銭、1厘は3年後に発行されたことがわかる。

ここで岩手県の現状をみるために「盛岡市史」より抜粋してみる。
《新政府が改貨の令を発布したのは、明治4年5月であるが、県の公文で新円の呼称を用いたのは、明治6年(1873)3月以降である。それまで盛岡地方に通用していた鉄銭は、東京の商人岡田平蔵が大蔵省に交渉して払い下げを受け、明治7年(1874)1月、数万貫を搬出したため、県内で小貨が不足し、実に不自由となった。そのため県では大蔵省に陳情し、銅貨半銭・1銭・2銭貨で1万円の廻送を頼んだのに対し、大蔵省はその4分の1に当たる2,500円を廻送したにすぎなかったのである。》
この資料を見てみると、花巻地方の新貨への移行について参考になりそうであるが、これについては、後の方で書くことにする。

さて、金貨は20円、10円、5円、2円、1円と発行されたが、この中で金貨20円というのは、どのようにして使われたのであろうか。…
この頃、東京で一般の人は月給5円から6円で暮らせたというから、20円の金貨は庶民には手の届かぬものと思われる。…銅貨は明治3年から試鋳を行なったが、発行は明治6年からとなった。
        【参考資料】「古銭と紙幣」金園社矢部倉吉著

花巻地方では、いつ頃から新貨に切り替えたのであろうか。
明治7年(1874) 9月5日に、新政府は旧式貨幣の通用を禁止し、新貨と交換を命じている。さて、ここで資料として「北湯口大畑講の日誌」の中から抜粋してみる。

《明治十一年(1878)
一、寅とし正月十日 米二十六貫文、大豆二十三貫文、糯(もち)米二十八貫文 弥惣治
一、三月十日    米三十貫文、大豆二十六貫文、糯米三十三貫文 源右衛門
一、七月十二日   米二十三貫文、大豆二十八貫文 金之丞
一、十一月     米三十五貫文、大豆三十四貫文 蔵之助》

これは、米は1駄つまり2俵の値段、大豆は4斗の値段のようである。
この年まで旧貨(文)を使用していたことがわかる。

《明治十二年(1879)
一、卯の年正月十六日 米四十一貫文、大豆二十六貫文 作兵衛
一、旧三月十六日   米四円、大豆三円三十銭 鎌田元吉
一、四月十七日    米四両一歩、大豆三円七十五銭、諸国一升十五銭
一、六月十八日    米四円四十銭、大豆三円五十銭 鎌田弥次兵衛
一、卯八月十九日   古米四十九貫文 新助》

明治12年の日誌には文と円、銭が出てくるので、やっと新貨の交換が始まったことがわかる。これから見て、1円が1両、または10貫文と交換したと思われる。
明治14年(1881)、同15年の日誌にもわずかに旧貨の「文」が出てくる。そして同16年以降になると、完全に新貨のみの記録となっている。

もう一つの資料「西宮野目三嶽講の日誌」を見てみる。日誌は明治12年からの記録になっている。

《明治十二年
一、六月卯     四円三十銭 鎌田小右エ門
一、卯旧八月十九日 米壱駄古五円、新米四円七十五銭 畠山要助
一、十二月     米四円八十五銭 阿部孫蔵》

とあるので、宮野目方面では、明治12年には新貨に切り換えていたことがわかる。

次に「花巻市史・近代編」より抜粋してみる。
《花巻地方では、いつから円、銭が流通したのであろうか。ここにその一端を示す史料がある。(矢沢島の神明社に弘化二年(1845)以来の「御宮御祭礼当宿帳」なる冊子がある。この神社の祭礼のとき幸田神楽が行われたとか、一年中の賽銭がいくらあったとか、祭りの経費でどういう品物を買ったため差引きいくら残ったとか、といった内容について記入している。弘化二年以降、毎年うけついで書入しているので、一神社の変遷の一面を知る面白い資料でもある。その中に次のような記事がある。)

明治十四年(1881)
一、御祭札 当初躍芝居、更木神楽、長松大神楽
(中略)
差引四貫五百八拾五文預リ

明治十五年(1882)
一、御祭礼更木村神楽、当所躍芝居並大神楽壱つ
一、六銭       旧冬ためせん十五人より取立
一、壱円八拾弐銭八リ 巳ノ九月十七日より当九月十五日迄の賽銭
一、壱円四捨銭弐リ、 御祭礼饗銭
〆三円三拾三銭 内六拾銭祠官様へ上納 残り弐円七拾三銭
七捨五銭 祭せん十五人より出し
〆三円四捨八銭 内弐円五拾銭九リ 御祭礼惣遺払
差引残り九拾七銭壱リ預り

この史料によると、島の附近では明治15年(1882)から円・銭・厘が使われていたということである。(3)この頃のこの部落は、米1升4銭6厘であるので、これを基準に他と比較してみるのも興味があろう。 》

とある。

これまで使用した資料を総合してみると、次のように推察できる。
花巻地方の新貨幣の切り換えは、明治12年(1879)から始まり、同15年(1882)に終了したと思われる。そうすると4年間かかって切り換えたとみてよいのではなかろうか。
新政府の新貨幣交換令は明治7年(1874)に出ているので、花巻地方では、この5年後から交換が始まったことになる。前にも書いたように、明治7年に大蔵省から岩手県に銅貨銭2,500円しか廻送してこなかったから、県内に充分には行き渡らず、行き渡る量の銅貨銭がくるまでは相当の期間がかかったと思われる。

ところで新貨との交換が、花巻地方ではどこで実施したものであろうか。記録がなく、今のところ不明である。銀行はまだ誕生せず、考えられるのは郡役所ということである。
郡村制は明治12年1月より実施され、岩手県に18郡役所を置いた。
花巻は稗貫郡役所の管轄であったので、新貨との交換は、稗貫郡役所で行なわれたと思ってよいのではなかろうか。

[補足]
(1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(2) 「花北の歴史を学ぶ -「会報 一日市の歴史」(鎌田雅夫著)から-:花北コミュニティ協議会 H30.2.28改版発行

(3) 島の円・銭・厘使用:「東十二丁目誌」から円・銭・厘の早期の使用例を摘出してみると:
・明治6年9月7日付 大木彦助が「…東十二丁目村下等教師申付け候事、但月給2円50銭宛行候事」の岩手県辞令を受けている。
・明治8年1月8日 …小学学令、満6才より14才までとなる。(授業料 1か月 2銭1厘7毛)
・明治11年11月申請の官地借用願に「下草料 1ヶ年金1円70銭」などとある。
・明治12年(1879)の地租税額が円・銭・厘単位で記されている。

〇石崎先生が収集した東十二丁目の古文書の中に「秋葉組文書」がありますが、その中の…
・《安政六年 秋葉山御神楽上候節 諸入用控帳 未ノ三月十六日 三四郎記》と表記された文書の文末近くに
《明治拾壱歳
一 拾九銭弐厘  米三升五合代》 とあり、

(右クリックで拡大表示できます。)

・また《明治十三辰年 秋葉山御神楽上 諸入用控帳 旧六月拾五日 講中》には
《  記
一金 壱銭五リ   □□□
一〃 壱銭五リ  こんにゃぐ 三枚
一〃 一銭    くヅ
一〃 五銭    ほや
一〃 壱銭    東山壱帳
一〃 七銭五厘  だんぶ
一〃 六銭五リ  醤油
一〃 弐銭    酢
一〃 拾五銭   豆腐
〆 四拾壱せん …》 とあります。

これらを見ると、前記本文にあった「島の附近では明治15年(1882)から円・銭・厘が使われていた」というのは、見直しが必要と思われます。

(2019.8.9掲/8.10改)