日本ではこれまで「ウイグル」に関して報道されることはあまりありませんでしたが、最近ではテレビや新聞などメジャーなメディアでも取上げられるようになっています。しかしその内容がウイグルの不運・不幸に関するものばかりであり、本当に残念でなりません。
私は、10年以上前のことですが、新疆ウイグル自治区を4~5回訪れ、また文献を漁ってはブログ(注1)で紹介していた時期がありました。本稿ではこの記事の中の一編を若干加筆して転載します。
ウイグルはその後… – 学会の通説と現代ウイグル人の主張 –
ウイグル人
(「中央アジアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:濱田正美))
[テュルク化とイスラーム化] …この地域(タリム盆地(タクラマカン砂漠とその周縁))の住民は元来, インド・イラン系の言語を話す人々であったが, 9世紀後半にモンゴル高原の支配権を失ったウイグルの一部がタリム盆地東部に移住し, いわゆる西ウイグル王国を建てたことを契機に〈テュルク化〉した.
タリム盆地の西部には, モンゴル高原のウイグルとは別のテュルク系の集団に出自するカラハン朝が進出し, 10世紀中葉にはイスラームを受容した. この結果, この地域では〈テュルク化〉と〈イスラーム化〉が同時並行的に進行した.
しかし, その後のイスラーム化の進展は比較的緩やかで, モンゴル帝国の支配下でイスラームは仏教と共存し, 15世紀の前半でもトゥルファンの住民の大多数は依然仏教徒であったが, この世紀の後半以降, チャガタイ・ウルスの後身であるモグール・ウルス(モグーリスターン)の攻勢により仏教は完全に消滅した. トゥルファンよりさらに東に位置するハミの最後の仏教徒が明の庇護を求めて長城の内側へ移住したのは1513年のことである. またこの時期以降, 天山以北の支配権を喪失した遊牧モグール(モンゴルのぺルシァ語形)の定住化が進み, 彼らは言語的にはテュルク化・宗教的にはイスラーム化した.
その結果, カシュガル・ヤルカンドからハミに至る天山山脈以南のオアシス地帯には, 言語, 文化, 宗教的にほぼ均質な社会が形成された.モンゴル帝国時代、ウイグルという名辞は〈仏教徒〉の同義語に変化した. それゆえ明の領域に移住した仏教徒はウイグルと自称し続けたが, イスラームを受容した住民は, 異教徒に対してはムスリム, この地域の外の出身者に対してはエルリク(土地者)と自称するのみであり, 個々の出身オアシスヘの帰属を示すカシュガルリク・トゥルファンリクといった名称のほか, より包括的な民族名称を持たなかった.
[清朝による支配] 1680年タリム盆地のオアシス地帯はジュンガルによって征服され、さらに1759年には清朝によって征服された。…
西北ムスリム大反乱と10年に及ぶヤークーブ・ベグの支配の後, 1878年に新疆を再征服すると, 清朝は現地人を同化する政策に転じ, 84年には新彊に省制が施行された. 同化政策の推進は逆に民族的覚醒をうながす契機となり, 東トルキスタンのムスリム定住民は固有の民族であるとする観念が形成されはじめ, 東トルキスタン人, さらには汎テュルク主義の影響を受けて, テュルク人などの民族名称が用いられるようになった.
1921年, ソ連に居住する東トルキスタン出身者…の代表者会議において, ロシア人の古代テュルク語学者セルゲイ・マローフの提議に基づき, ウイグルという名称が民族名として採用された. 中国領新疆では, この名称は35年に公式に用いられるようになり,〈維吾爾〉という漢字表記も定められた….
[現代の動き] …文化大革命時期には多くの宗教関係者が迫害, ときに虐殺されたと伝えられるがその詳細は不明である. 80年代の開放政策展開後, 文革中に破壊されたモスクや墓廟(マザール)の再建, ウイグル語表記に一時期採用きれていた漢字ピンインに基づくローマ字からアラビア文字に戻すなどの〈和解政策〉が行われた. しかし, 90年代には権力の側からの宗教に対する管理の強化とこれに対する反対運動の過激化とが同時に進行している. これらの運動が民族主義的なものか, あるいは世界的な広がりを持つイスラーム主義(イスラーム復興)につながるものであるか, その実体は報道が限られているため不明であるが, 中国政府はこれをテロリストと呼んでその弾圧に腐心している. 同時にウイグル社会の漢化はさらに進展し, 2003年には自治区のすべての高等教育機関の授業は漢語によるとの決定がなされた.
エリキン氏(カシュガル出身のウイグル人、トルコ在住)のメール(2006.2.21)より:
ウイグルという名前は東トルキスタン国内のウイグル人の存在の最後の合法的な名前として理解しています。東トルキスタンという単語は禁止されているから。自慢の言葉だと考えても言い過ぎません。ウイグルだったから光栄と考えています。
中国はウイグル自治区と呼びながら、また隠したくて少数民族と一生懸命に宣伝しているけど。…
ウイグルという名前は…紀元前4世紀からある名前で、8世紀に今のモンゴル草原でウイグル国家、9世紀になるとケンス.コックヌル(Kengsu Koknur、中国語への音訳は甘粛青海)ウイグル国家を作ったこともあり、ウイグルという民族名はいつの時代にも東トルキスタンの土地で知られていた。
ロシアという侵略者は自らの侵略を隠し、植民統治を正当化するために、中央アジアのテュルク系民族に圧力をかけ、ロシアの口に合う学説を受けさせ、学術討論会も、会議も、宣伝もロシア人の利益にあうように設定したものに過ぎません。
東トルキスタンの合法的な持ち主であるウイグル民族は、「自分の民族名を知らずに1921年か1935年にロシア人に教えてもらった」ことも存在しないし、それは真っ赤な嘘です。腹が立ちます。
1921年アブドゥハリック.ウイグル(Abduhaliq Uyghur)という詩人が作った〈目覚ませウイグル!〉という歌の中で、中華民国の植民統治に反対し、目を覚して、命をかけて、侵略者を追い出し、独立しよう、と言う内容の詩だったので、詩人は侵略者当局によってトルファンで残酷に足から頭まで体が切られて殺害されてしまったのです。
http://www.bizuyghur.com/oyghan/ (現在リンク切れ)
に〈目覚ませよ、ウイグル!〉という詩があり、国旗が並んでいる行に一番左はウイグル語、聞こえてくる歌詞つきの音楽もウイグル語です。…
「目覚ませ」はウイグル語で”Oyghan”といいます。”Biz Uyghur”は「私たちはウイグルです」という意味です。
19世紀の始めごろのモラムサ.サイラミ(Molla Musa Sayrami)という歴史家が書いた歴史の本にもウイグルという民族名ははっきりと記載されています。いうまでもなく、ウイグルはそれぞれの時代で東トルキスタンの国民という意味で使われてきました。
1921年カザフスタンでロシア人が会議をやったと同時に、中央アジアの民であるテュルク民族に対する新たな弾圧が始まったのです。その会議は科学的な会議ではなく、政治、侵略者のために設計された会議です。歴史を偽造し、反対者を弾圧するための公文書です。
[補足]
(注1) 「テュルク&モンゴル」
〇ウイグル (2007.1.24)
〇現代ウイグル (2007.2.2)
〇ウイグルの西遷 (地図)
〇タリム旅行案内 (~2006.1.21)
(新情報)
〇新疆の綿花畑では本当に「強制労働」が行われているのか? (2021.4.12)
(by satotak | 2006-03-10 09:30 ) (2021.4.10再掲)