照井氏と薬師館

(中村良幸著「中世城館調査報告一」(H28.3 花巻市文化財調査報告書第10集所収)より)

これまでに東十二丁目の照井氏と薬師館については何度か取上げてきました(注1)が、結局のところ「私にとって、「照井」は中世の東十二丁目、最大の謎です!!」ということで終っていました。ところが最近になって中村良幸氏(現・花巻市総合文化財センター所長)の「中世城館調査報告一」に私の疑問に応える見解が示されていることを知りましたので、ご紹介します。

  一、花巻市東十二丁目「薬師館
…さて、この薬師館の館主は誰かということである。館の所在地は、現在東十二丁目地内に入り、…
『岩手県管轄地誌』「東拾二丁目村誌」では、

陸中国稗貫郡東拾二丁目村
本村ハ古ヨリ本郡二属シ西拾二丁目村ト一村ニテ島村ト称ス。
天正ノ頃本称二改メ分テ東西両村トナル

とあり、中世に島村から東と西の十二丁目村に分かれたとの記述がなされている。十二丁目村は中世には和賀氏と稗貫氏の境界にあたり、非常に重要な位置を占めている。したがって、稗貫氏でも有力な武将が存在していたはずであるが、仮に中世に東十二丁目村並びに西十二丁目村が一村として存在して島村であったなら、この地を支配していた武将は「島」姓を名乗っていたはずである。しかし、「島」あるいは「嶋」姓の武将はみあたらず、地名姓では西十二丁目にある十二丁目館を居城としていた十二丁目氏がいた。西十二丁目は、稗貫氏の居城であった鳥谷ケ崎城下の南の要所にあたり、稗貫氏配下でも極めて有力な武将として置かれていたことに疑う余地はない。…
しかし、十二丁目氏姓は、河東にあたる東十二丁目地域をも領有してのものであったのだろうか。
実は、東十二丁目周辺の地名を姓にもつ武将が稗貫氏家臣団の中にいる。前述の『奥南落穂集』「稗貫家ノ次第」にみられる照井氏である。

照井兵衛入道鉄山
照井帯刀左衛門武也
照井助次郎武昌 武也子 仕政直君五十石

照井の姓は、以前に東十二丁目の島周辺にあったという「照井沼」に由来すると考えられる。多くの古文書に照井沼に関する伝説や言い伝え等が残されているが、それらには中世の照井氏の存在が見え隠れする。

享保年間(1716~36)に書かれたといわれる松井道圓の『和賀稗貫郷村志』「嶋村」の項に「沼御前」の記述がある。(注2)

沼御前 小さき叢祠也。照井家由緒の記録に云、後堀川帝元仁元年(1224)八月の頃、仮初(かりそめ)ながら思ひ立、此國に下向す。併竹か岡の定相成るにより、竹をば無沙汰にすべからず。氏ハ藤原也。保字ハ照トいふ字也云々。又記ニ、此本尊ト申ハ鎌倉より照井の三男に尾志影の中将ト申入道頸にかけ、奥州照井の里に下向す。猿乎石川の後ロ也。然によりて照井三十三郷の者、此本尊拝まざるハなし。(後略)

時代は大きく下るが、昭和15年刊行の『島村史』(注3)にも照井氏に関連する話として、東十二丁目・照井家の覚書を掲載している。

照井又右エ門ノ先代ハ藤原太郎武久ト日フ、文治元年ノ頃押影中将ガ二宮ノ姫ト夫妻トナリ玉ゟ姓ヲ照井ト始メ給フト傳フ、其後二十四、五代照井禅門ノ時代稗貫郡嶋村ニ居住シ臥牛、関袋、嶋ノ三村ヲ領シタリ、永享二年稗貫氏没落ノ後禅門トナリ玄蕃、筑後ノ二子共ニ禅門ニ成リ父禅門子禅門ト申シタリト云フ、降ツテ慶長六年和賀領主和賀忠親ガ二子城ヲ襲フ時玄蕃筑後ノ兄弟和賀勢ニ加ハリ玄蕃陣没シタリ。筑後ノ子式部、式部ノ子又右エ門ニ継ギ又右エ門南部重信公ノ御召シニ據リ盛岡藩士ト成リ、又右エ門ノ子市右エ門、小右エ門、善右エ門ノ三兄弟ニ禄ヲ下サレ、父又右エ門は嶋村ニ止マリテ(後略)

この二つの出典は同じ照井家文書と思われる。『島村史』の内容をみると、永享2年(1430)の後に出家した照井兄弟が、170年後の慶長6年(1601)の和賀氏の乱では和賀氏と共に二子城を襲うなど、中世の記述についての信憑性は低いといわざるを得ない。ただ、冒頭に登場する「照井又右エ門」は、前出の「稗貫家ノ次第」に名はないが、『南部藩参考諸家系図』の照井氏の項には次のように記されている。

姓藤原 紋瓶子
全定或武治 小佐衛門 照井又右衛門
  花巻の人也、浪人ニテ死

又右衛門全定の別字に「武治」とあって武の字がつくことをみれば、「稗貫家ノ次第」の帯刀左衛門武也や助次郎武昌とは何らかの関係があることが窺われる。さらに、『南部藩参考諸家系図』では、全定の子の市右衛門全規は「重信公ノ時花巻ヨリ召出サレ、二人扶持ヲ給フ」とあることから、照井家覚書の江戸時代以降の記述には大きな差異はないようである。

問題は照井又右衛門全定以前であろう。『島村史』並びに『和賀稗貫郷村志』にみられる照井氏の祖「藤原」姓はまだしも、「押影」や「尾志影」は、巷聞稗貫氏の本姓といわれてきた「山影」から、「中将」は稗貫氏の本姓である「中條(ちゅうじょう)」の読みからの混同であろうか。
また、『島村史』の永享2年の稗貫氏没落は、「稗貫状」などで広く知られていた永享7・8年(1435・36)の和賀稗貫争乱の事ではないかと推察される。このように各文献には矛盾や誤謬が多いが、中世に稗貫氏家臣として照井姓の一族が存在していたことは確かであろう。その支配地が「臥牛、関袋、嶋の三村」であるかの真偽は別としても、東十二丁目周辺を領有していた可能性は高いのである。

それでは、十二丁目氏と照井氏の関係はどのようなものであっただろうか。それを推測できる記述を、『吾妻むかし物語』「永享年中和賀・稗貫一亂の事」にみることができる。この物語は、前述した永享7・8年の和賀氏と稗貫氏の争乱の際に、南部・斯波軍勢によって攻め込まれた稗貫氏一族が「稗貫の本城・瀬川の舘」に籠城した話であり、物語の中に多くの稗貫氏の家臣の名が出てくる。

(前略) 瀬川隠岐・北湯口伊豆○瀬川隠州・北湯口豆州、新堀備中・小森林治部少輔、大畑・湯本○湯本・臺・金屋・狼澤、圓万寺○圓満寺、根子和泉○根子霜臺十二丁目・伊藤何某○伊藤、照井、川口○里川口・小舟渡 (後略)

この『吾妻むかし物語』の記述は、文禄3年(1594)に書かれたとされる八重畑独歩斎の「稗貫状」のほかに、永享の乱に関わる複数の伝承・異聞などを元に一つにまとめられたものと考えられ、各武将名の後に○印で小さく書かれたのが異聞ではないかと推察される。何故なら、○以下はその前の武将名を別字に代えているか、その武将の一族を細かく分けて載せているからである。

「瀬川隠岐・北湯口伊豆○瀬川隠州・北湯口豆州」は、瀬川隠岐と北湯口伊豆の別字、「大畑・湯本○湯本・臺・金屋・狼澤」は、同じ湯本地域内の一族(おそらく高橋氏一族)を細かく分けて記したものである。同じく「十二丁目・伊藤何某○伊藤・照井」の記述を解釈してみると、十二丁目氏はもともと伊藤姓であることは「稗貫家ノ次第」で判明しているので、「十二丁目・伊藤何某○伊藤・照井」は「十二丁目氏一族の伊藤氏と照井氏」の意ではないかと考えられる。

以上のことなどから考えて、中世稗貫氏時代に十二丁目地域に所領を有した照井氏が存在していたと推測され、稗貫氏の有力武将・十二丁目氏の一族であった可能性が高い。おそらく、照井氏の居城は東十二丁目の薬師館であり、北上川西岸の十二丁目館と東岸の薬師館とによって、南方からの敵の侵入や北上川の渡し場を監視していたと考えられる。さらに、薬師館はその立地から見て、平城の十二丁目館とは違い、危急の時にいち早く本城に知らせる役目も担っていた山城と考えていいのではないだろうか。

さて、城館の名の多くは、地名あるいは館主名からつけられている。現在の「薬師館」だけでは館主・所在地ともよくわからない。
前述したように照井氏の城館の可能性が高くなれば、別名として「東十二丁目館」や「照井館」と付する記述があっても良いであろう。

[補足]
(注1) 照井氏と薬師館
(改訂) 島の悪左衛門
「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-
照井長者と照井沼 -北上川の変流?-
島の七家、九家、八家
照井・アテルイ・薬師館

(注2) 沼御前:ここに記されている物語の冒頭部はチンプンカンプンで意味を解せません。「矢沢村誌」(昭和29年発行)に小原無学氏が「原文の草書を誤読したから解らなくなったものであろう」として、訂正案を提示していますので、この案に基づいて復元してみると:

沼御前 小さき叢祠也。照井家由緒の記録に云、後堀川帝元仁元年(1224)八月の頃、仮初(かりそめ)ながら思ひ立、此國に下向す。保(テル)井か岡の定相成るにより、井をば無沙汰にすべからず。氏ハ藤原也。保(タモツ)字ハ照(テル)トいふ字也云々。…

(注3) 島村史:昭和16年編纂の「島郷土史」と同じものと思われます。
  ⇨ 「島郷土史」の目指したもの

(2018.4.18掲)