□ 母・マス
□ 妹・スグ
□ 妻・ロムアルダ
□ 長女・アウロラ暁子
□ 次女・ロムアルダコマ
□ 幼なじみ?・小田島柳子
□ 後妻・フェリパ
母・マス
矢沢村矢沢中島家の出身、昭和10(1935)年12月19日死去(96才)。
亮次郎は渡墨に当り、花巻の豪農・松屋の瀬川弥右ェ門の資金援助を受けたが、弥右ェ門の母も中島家の出身だったらしい。 続きを読む 亮次郎ゆかりの女たち
□ 母・マス
□ 妹・スグ
□ 妻・ロムアルダ
□ 長女・アウロラ暁子
□ 次女・ロムアルダコマ
□ 幼なじみ?・小田島柳子
□ 後妻・フェリパ
母・マス
矢沢村矢沢中島家の出身、昭和10(1935)年12月19日死去(96才)。
亮次郎は渡墨に当り、花巻の豪農・松屋の瀬川弥右ェ門の資金援助を受けたが、弥右ェ門の母も中島家の出身だったらしい。 続きを読む 亮次郎ゆかりの女たち
(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
日墨協働会社が解散する前、亮次郎は日本から同郷の小田島柳子(注1)という女性を呼び寄せた。「日墨交流史」には、画家・利根山光人氏が「照井を愛した日本人女性」と題して、柳子と亮次郎のロマンという話を寄せている。… 続きを読む 亮次郎の晩年そして死
(及川 昭「榎本武揚と照井亮次郎」(H16.3.1 花巻史談 第29号)より)
順調に発展を遂げていた日墨協働会社が明治43(1910)年からのメキシコ革命にまきこまれてしまった。35年間独裁政治を続けたディアス大統領と革命軍の戦いである。それが7年間も続いた。
日墨協働会社の被害
・インフレーション(貨幣価値大暴落)
・ディアス大統領時代に購入した414町歩の返還要求
・暴徒が商店、倉庫を襲う
・社員間の動揺
・会社運営上の意見続出
・製氷工場の失敗
・窮余の一策で設立した日墨貿易会社の失敗
メキシコ革命の終焉とともに大正9(1920)年日墨協働会社は解散し、財産は各社員間で分配した。
先人の全ての研究書は以上の7点内外を[会社解散の]理由として上げている。はたしてこれだけであろうか。… 続きを読む 日墨協働会社解散の原因
(及川 昭著「照井亮次郎の日墨協働会社におけるコミューン的経営とその思想の形成」(H18.3.31 花巻史談第31号)より)
はじめに
…榎本殖民団は入殖後、間もなく瓦解するが、照井は仲間とともに紆余曲折を経て「日墨協働会社」を設立。20世紀初頭中南米で様々な事業を展開し、日本人の企業として最大の会社に育て上げた。
この日墨協働会社は、社員に私有財産を認めず、その方針は社会主義的コミューンを理想としたものであった。この方法での経営は20年近くは順調に推移、日墨両国の発展に寄与すると共に、我国のメキシコ移民の基礎を築いた。
ところで、弱冠22才で渡墨した照井は社会主義的コミューンの思想を、激しい労働のさ中にあって如何様にして学び得たのであろうか。… 続きを読む 亮次郎の社会主義
– 三奥組合設立から日墨協働会社解散、日墨貿易会社設立まで –
1901(明治34)年 亮次郎 27才
3月4日 三奥組合設立(任意組合)
組合員 照井亮次郎、高橋熊太郎、清野三郎(以上3名、自由移民出身)、有馬六太郎、山本浅次郎、鈴木若(以上3名、契約移民出身)の6名
理事(組合代表者) 照井亮次郎
事業規模 小店2軒、農場1個所(多福岡(タフコ))、資産金合計2,800ドル
営業内容 牧畜、小売、製糖、醸酒、竹製家具製造販売、出稼ぎ
組合規則 ⇒ 「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」
続きを読む 日墨協働会社略史
(島区民会編・発行「島小百年史」(S48.11.3)より)
このたび島小学校百年誌の編集特に草創時代明治初期の編集にたずさわってみて、わが郷土島部落の初期における子弟教育のため長い間物心両面から多大な尽力をなされた古川宗家(屋号「孫左エ門殿」)の南米移住、及びその後の動向を追録してみるのも意義のあることであり、また編集者たる私(押切省三)の責任だと思い聞き得た範囲で書き残します。
近郊で名だたる名家であり、富豪であって、私塾時代に尽くされた忠栄氏が、私塾を開いたのはまことに先見の明があった方で、続いて小袋小学校時代に教鞭を取られた茂兵衛氏、その長男の忠直氏と次第に時代の風波に抗しきれず、大正末期に忠直氏が弟と共に南米移住することになったのです。それはもちろん生活に困ってという事ではなくて、古川家の血をひく雄図、気慨が根底になっていたのに加えて、弟永助氏の勧誘が最大の原因だったといわれています。 続きを読む もうひとつの南米移民