平将門 -将門は北上川を見たか-

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(海音寺潮五郎著「平将門(上)」(S42.5.30 新潮文庫 か-6-1)より)

北上メノコ
陸奥に鎮守府がおかれたのは、奈良朝の神亀(じんぎ)・天平(てんぴょう)の頃であった。この時代、この地方は蝦夷の天地で、日本民族の完全な領土ではなかった。鎮守府は、この辺境地帯の総督府と前進基地とを兼ね設けられたのであった。
はじめ今の宮城県塩釜市の近くの多賀城に設けられたが、平安朝になって、胆沢に移された。今の岩手県水沢市佐倉河町がその故地であるという。
神亀・天平の頃から、この時まで七十年の間に、約二十五里だけ前進基地が進んだわけである。
その後、この小説の時代よりずっと後、奥州藤原氏がおこって鎮守府将軍となり、平泉にうつすまで、鎮守府はここにあった。
胆沢の鎮守府は、今胆沢八幡のある場所にあったという。北に胆沢川があり、東に北上川があって、その合流点に位置する形勝の地である。

下総の豊田からここまで百三四十里、二十日ほどもかかって、小次郎(将門)はついた。坂東ではまだ暑いさかりであったが、ここはもう深い秋であった。 続きを読む 平将門 -将門は北上川を見たか-

亮次郎ゆかりの女たち

   母・マス
   妹・スグ
   妻・ロムアルダ
   長女・アウロラ暁子
   次女・ロムアルダコマ
   幼なじみ?・小田島柳子
   後妻・フェリパ

照井マス母・マス
矢沢村矢沢中島家の出身、昭和10(1935)年12月19日死去(96才)。
亮次郎は渡墨に当り、花巻の豪農・松屋の瀬川弥右ェ門の資金援助を受けたが、弥右ェ門の母も中島家の出身だったらしい。 続きを読む 亮次郎ゆかりの女たち

亮次郎の晩年そして死

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)

日墨協働会社が解散する前、亮次郎は日本から同郷の小田島柳子(注1)という女性を呼び寄せた。「日墨交流史」には、画家・利根山光人氏が「照井を愛した日本人女性」と題して、柳子と亮次郎のロマンという話を寄せている。… 続きを読む 亮次郎の晩年そして死

日墨協働会社解散の原因

(及川 昭「榎本武揚と照井亮次郎」(H16.3.1 花巻史談 第29号)より)

順調に発展を遂げていた日墨協働会社が明治43(1910)年からのメキシコ革命にまきこまれてしまった。35年間独裁政治を続けたディアス大統領と革命軍の戦いである。それが7年間も続いた。

 日墨協働会社の被害
・インフレーション(貨幣価値大暴落)
・ディアス大統領時代に購入した414町歩の返還要求
・暴徒が商店、倉庫を襲う
・社員間の動揺
・会社運営上の意見続出
・製氷工場の失敗
・窮余の一策で設立した日墨貿易会社の失敗

メキシコ革命の終焉とともに大正9(1920)年日墨協働会社は解散し、財産は各社員間で分配した。
先人の全ての研究書は以上の7点内外を[会社解散の]理由として上げている。はたしてこれだけであろうか。… 続きを読む 日墨協働会社解散の原因

亮次郎の社会主義

(及川 昭著「照井亮次郎の日墨協働会社におけるコミューン的経営とその思想の形成」(H18.3.31 花巻史談第31号)より)

はじめに
…榎本殖民団は入殖後、間もなく瓦解するが、照井は仲間とともに紆余曲折を経て「日墨協働会社」を設立。20世紀初頭中南米で様々な事業を展開し、日本人の企業として最大の会社に育て上げた。
この日墨協働会社は、社員に私有財産を認めず、その方針は社会主義的コミューンを理想としたものであった。この方法での経営は20年近くは順調に推移、日墨両国の発展に寄与すると共に、我国のメキシコ移民の基礎を築いた。
ところで、弱冠22才で渡墨した照井は社会主義的コミューンの思想を、激しい労働のさ中にあって如何様にして学び得たのであろうか。… 続きを読む 亮次郎の社会主義

日墨協働会社略史

– 三奥組合設立から日墨協働会社解散、日墨貿易会社設立まで –

1901(明治34)  亮次郎 27才
3月4 三奥組合設立(任意組合)
組合員  照井亮次郎、高橋熊太郎、清野三郎(以上3名、自由移民出身)、有馬六太郎、山本浅次郎、鈴木若(以上3名、契約移民出身)の6名
理事(組合代表者)  照井亮次郎
事業規模  小店2軒、農場1個所(多福岡(タフコ))、資産金合計2,800ドル
営業内容  牧畜、小売、製糖、醸酒、竹製家具製造販売、出稼ぎ
組合規則  ⇒ 「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」
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