亮次郎の少年時代

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003 パコスジャパン)より)
…照井亮次郎は1874(明治7)年6月10日、岩手県稗貫郡東十二丁目村で、父亮蔵、母マスの4人兄弟の第三子、次男として生まれた。兄弟姉妹として、姉・照、兄・敬三、妹・すぐ(寿久)がいる。[彼の生れた]「長根」[部落]は昔から北上川の洪水の被害を受けるところであったため、照井家の家屋は、二階建てであった。この辺りは米栽培を中心とした農業地帯であり、9月になると、稲がたわわに実り黄金の色が回りの風景を染める。また、養蚕のさかんな所でもあった。…

「稗貫郡矢澤村郷土教育資料」によると、少年時代の亮次郎は「幼少既ニ覇気ニ富ミ且活溌ナル個性ヲ有シタリキ」と記されている。
1880(明治13)年、彼は東十二丁目小袋(下等)小学校(明治20年…、高木村の高木尋常小学校と合併、後に島小学校となる)に入学した。… 続きを読む 亮次郎の少年時代

東十二丁目付近の河道移動

(「北上川 第6輯」(S52.3.19 東北地方建設局岩手工事事務所)より)
第一部 北上川流域の自然
第四編 河道変遷
第二章 旧河道と変遷
第二節 各論
五、稗貫地方

北上川河道(一)外台地区
花巻市東郊における北上川は、市街地の北方、同市高木蛇子塚において左支猿ヶ石川を合流し、同地先を南流して朝日橋を過ぎ、右支豊沢川を入れ、更に、同市南郊外台(右岸)東岸に沿うて南下し、その南端附近に至り流向を南東に転じ、左岸同市東十二丁目朴田地先に至り、再び、南流となり北上市更木、市ノ川原を経て、同舟渡地先を西より南に迂廻し、更に、同野沢地先で三度南流に転じ北上市立花方面に南下するところである。 続きを読む 東十二丁目付近の河道移動

亮次郎の父・照井亮蔵

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
照井亮蔵亮次郎の父・亮蔵は漢方医であり、矢沢村会議長になるなど、村の名士であった。素封家、いわゆる「金持ち」であったが、社会事業には金は惜しまず使ったという。「医師 照井亮蔵」について次のような記録がある。

「照井亮蔵は弘化元年12月3日、照井良作の長男として矢沢村東十二丁目に生まれた。亮蔵は小さいときから頭の良い子であったらしく、父の良作は平民の子は医者にするのがよいと思い、13才になった安政4年に、和賀郡轟木村に住んでいた高田了碩という漢方医に弟子入りをさせた,
1年10ヵ月間、了碩について医術を学んだ亮蔵は、安政6年3月に花巻村の嶋李蹊について医術を勉強したという。この間4年10ヵ月、計6年8ヵ月間修行した亮蔵が、開業できたのは元治元年の正月、20才のときであった。開業は東十二丁目である。 続きを読む 亮次郎の父・照井亮蔵

北上川概観

このサイトでは北上川の中流域を中心に見ていくつもりですが、まずは北上川の全体像を俯瞰しておきます。

(「北上川 第一輯」(S48.3 東北地方建設局岩手工事事務所)より)
北上川水系図概要
北上川は宮城、岩手両県に跨る東北地方第一の大河川にして、源を岩手県岩手郡岩手町御堂に発し、北上、奥羽両山脈から発する大小幾多の支川を合せ、岩手県を北から南に縦貫し、一関下流の狭窄部を経て宮城県に入り、柳津地先で新旧両川に分流され、新北上川は追波に、旧北上川は石巻港に注ぐ、幹川流路延長 250.587km、流城面積 10,244.68k㎡の大河である。… 続きを読む 北上川概観

亮次郎年譜

「シエラマドレの熱風」の巻末に付いている年譜を基に、「亮次郎年譜」を作ってみました。
亮次郎年譜
これだけでは彼の行動で見えないところがありますので、今後折を見て追補していきたいと思っています。

ところで「シエラマドレ」はSierra Madre でメキシコの山脈の名前、sierra:山脈、madre:母だそうです。
この山脈はメキシコの北西から南東に連なる大山脈で、延長2400km、標高は3000m以上に達するとのこと。北から南へ西シエラマドレ山脈、東シエラマドレ山脈、南シエラマドレ山脈が横たわっています。

(2014.5.4掲)

照井亮次郎

ここ半年ばかり照井亮次郎についてあれこれ調べています。
ことの発端は盛岡に住む旧友S君からのメールでした。
「こんにちは! 照井亮次郎の生家 北上川の東岸、花巻市長根とあるけど、どの辺かな? 昭和59年3月16日母屋一棟消失したようです。」

そして私の返事
「長根の高島道路ぞいに金比羅神社があり、その南側の空き地が焼けた家のあったところです。そこにはかつて秀(しゅう)さんという女性が一人で住んでいましたが、火事のあと失意の中で亡くなったようです。

私の記憶に残っているのは、彼女の家には猿がいて、ちょっと変った家だったということ。子供の頃猿を見るためだったのか、時々遊びに行ってました。

母に電話で聞いたところでは:
秀さんはメキシコに行った人(亮次郎?)の娘か姪。台湾で教師をしていたが、戦後帰郷。その時猿や珍しい動物を持ち帰ったらしい。お花の先生などをして一人で暮らしていた。一生独身。…

最近つくづく思うのですが、身近に色々な人がいたのに、何も知らずに年を重ねてしまいました。若い頃に知っていれば、感化されるところがあったかも知れないのに。知る機会のなかったのが残念!!!」

彼のメールを読んだ段階では照井亮次郎について全然覚えがなかったのですが、手元にある「東十二丁目誌」を見ると、載っていました。「拓殖家 照井亮次郎」と題した8行の紹介記事が!!!

亮次郎
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