「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-

年初に「石崎直治著『東十二丁目誌』註解」を4~5年かけて纏めてみようかと思い立ち、今年は第1章から第4章までをやるつもりでいます。
本書には日本史の通史的な事柄等も含まれていますが、注釈を加えたり補足したりするのは、東十二丁目に直接関係する事項を中心に、拡げても精々稗貫・和賀両郡に関することまでに限るつもりです。

第1章 東十二丁目の地名
第2章 原始時代
第3章 古 代
第4章 中 世
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初夢!? 「東十二丁目誌」註解

今年の初夢は、「石崎直治著『東十二丁目誌』註解」を書くこと。
完成目標は、「東十二丁目誌」発刊30周年に当たる平成32年(2020)、遅くとも私が80才になる平成33年(2021)。

「東十二丁目誌」は全390ページ、単純に4年で割ると約100ページ/年。今年は「第1章 東十二丁目の地名」から「第4章 中世」まで約80ページか、「第5章 近世」の120ページに手を付けようかと思っています。

注釈を加えたり補足したりするのは、東十二丁目に直接関係する事項を中心に、拡げても精々稗貫・和賀両郡に関することまでに限るつもりです。「東十二丁目誌」には日本史の通史的な事柄等も含まれていますが、これらに触れる余裕はありません。 続きを読む 初夢!? 「東十二丁目誌」註解

近世稗和拾通略図

盛岡・八戸両藩において、藩政期を通じてみられる特徴の第一は、「通(とおり)」という独特の代官統治区域を設けていたことである。盛岡藩領は広大ではあったが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、生産力も乏しかった地方である。しかもそういう状況のなかに村落が点在していたわけであるから、他藩のように郡からただちに村を行政単位とするには不都合な面か多かった。そこで特別な地方行政組織「通」が考えだされた。 続きを読む 近世稗和拾通略図

古代・中世の稗貫郡と稗貫氏

(「角川日本地名大辞典 (3) 岩手県」(1985.2.)より)

〔古代〕奥羽山脈の東麓に発して、花巻市西辺において北上川に注ぐ川に豊沢川というのがある。これを「遠胆沢川」の意味に解し、この方面を古代「遠胆沢」というふうに呼んだ名残りと考える説は、江戸期からあった。おそらくこの説は正しいので、古代は、和賀・稗貫方面は、「奥胆沢」の意味で、遠胆沢のように呼ばれていたのではなかったかと推定される。

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通・とおり -近世の稗貫・和賀郡-

…広大な領域からなる盛岡藩には、通(とおり)という独特の代官統治区域が設けられていた。この通制度は領内総検地が進められた寛文6年(1666)から天和3年(1683)までの間に完成し、享保20年(1735)には領内10郡587ヵ村を33通に分割し、1通1代官所を原則として25代官所に整理したという。しかし、その後も新設・統廃合が行われ、25代官所に確定するのは寛政4年(1792)からである。…
(吉川弘文館「国史大辞典」【盛岡藩】より)

稗貫・和賀両郡には次の10通があったが、その内4通が複数郡にまたがっている。 続きを読む 通・とおり -近世の稗貫・和賀郡-

稗貫郡消滅 -近・現代の稗貫郡-

平成の大合併の一環として、平成18年(2006) 1月1日に稗貫郡大迫町と石鳥谷町が和賀郡東和町と共に花巻市に合併し、新制の花巻市が発足しました。そして両町は稗貫郡から当然に離脱し、稗貫郡に属する町村がなくなり、同郡は「消滅した」と言われます。

官報 第4139号 (H17.7.21)
官報 第4139号 (H17.7.21)

「稗貫郡が消滅した」とはどういうことなのか!? 続きを読む 稗貫郡消滅 -近・現代の稗貫郡-