「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-

「東十二丁目誌」に「満海坊」が5ヶ所に出てきます。いずれも島の開拓者として登場するのですが、この開拓はどこをいつ頃に行われたものなのか。そして満海坊とは一体どういう人物だったのか? 拙(つたな)い考証を試みます。

東十二丁目誌には次のように述べられています。
(1) 「第3章 古代」の「村の開拓」の中に、「弘仁元年(810)満海坊なるもの、島邑(むら)開拓記念として熊野神社を草創し、新米を供えて旧九月十五日祭典を行ったと由緒が伝えられている。」とあります。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-

「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-

第4章 中世
第1節 中世と地方の動き
本節に東十二丁目への言及はありません。
稗貫氏については、「源頼朝は…奥州征伐に功のあった鎌倉武士にそれぞれ恩賞として東北各地を所領として与えた。この時岩手に派遣された御家人は次のように地頭として任命されている。…稗貫盛基 稗貫郡…」とあり、また「稗貫氏は足利時代には一時全盛となったが、広忠の代、天下の動きに対応を誤り、所領を没収され滅亡するに至った。」とあるのみですが、第4節以下で詳しく述べられています。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-

島の悪左衛門

(「岩手の民話」より)
(「岩手の民話」より)

花巻の南の島村に、むかし、悪左衛門という百姓がいました。ひじょうに小男ながら、負けずぎらいで有名でした。
悪左衛門に二人の娘がありましたが、その姉娘の方に縁談がまとまりました。
相手は、水押村の、これまた負けずぎらいで知られた名も同じ悪左衛門でした。その水押の悪左衛門から招待された島の悪左衛門親子は、さっそく出かけました。ちょうど十二月の寒いさいちゅうでしたが、悪左衛門夫婦も、二人の娘も、うすい夏の着物を一枚着たきりでした。 続きを読む 島の悪左衛門

「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-

年初に「石崎直治著『東十二丁目誌』註解」を4~5年かけて纏めてみようかと思い立ち、今年は第1章から第4章までをやるつもりでいます。
本書には日本史の通史的な事柄等も含まれていますが、注釈を加えたり補足したりするのは、東十二丁目に直接関係する事項を中心に、拡げても精々稗貫・和賀両郡に関することまでに限るつもりです。

第1章 東十二丁目の地名
第2章 原始時代
第3章 古 代
第4章 中 世
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初夢!? 「東十二丁目誌」註解

今年の初夢は、「石崎直治著『東十二丁目誌』註解」を書くこと。
完成目標は、「東十二丁目誌」発刊30周年に当たる平成32年(2020)、遅くとも私が80才になる平成33年(2021)。

「東十二丁目誌」は全390ページ、単純に4年で割ると約100ページ/年。今年は「第1章 東十二丁目の地名」から「第4章 中世」まで約80ページか、「第5章 近世」の120ページに手を付けようかと思っています。

注釈を加えたり補足したりするのは、東十二丁目に直接関係する事項を中心に、拡げても精々稗貫・和賀両郡に関することまでに限るつもりです。「東十二丁目誌」には日本史の通史的な事柄等も含まれていますが、これらに触れる余裕はありません。 続きを読む 初夢!? 「東十二丁目誌」註解

近世稗和拾通略図

盛岡・八戸両藩において、藩政期を通じてみられる特徴の第一は、「通(とおり)」という独特の代官統治区域を設けていたことである。盛岡藩領は広大ではあったが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、生産力も乏しかった地方である。しかもそういう状況のなかに村落が点在していたわけであるから、他藩のように郡からただちに村を行政単位とするには不都合な面か多かった。そこで特別な地方行政組織「通」が考えだされた。 続きを読む 近世稗和拾通略図