10月8日に東十二丁目の高橋市議のお宅で「照井亮次郎(注1)を語る会」がありました。集まったのは高橋氏の外に東京から御出での瀬川氏夫妻、仙台から三浦氏、高木の佐藤氏、そして私の計6名。
瀬川氏がこの集まりの音頭取り、奥様は亮次郎のお孫さん(亮次郎の娘・アウロラ暁子の娘)。 続きを読む 日本人メキシコ移住120周年: 亮次郎とメキシコを想う
10月8日に東十二丁目の高橋市議のお宅で「照井亮次郎(注1)を語る会」がありました。集まったのは高橋氏の外に東京から御出での瀬川氏夫妻、仙台から三浦氏、高木の佐藤氏、そして私の計6名。
瀬川氏がこの集まりの音頭取り、奥様は亮次郎のお孫さん(亮次郎の娘・アウロラ暁子の娘)。 続きを読む 日本人メキシコ移住120周年: 亮次郎とメキシコを想う
「島郷土史」(昭和16年編纂)は「東十二丁目誌」などでしばしば引用される文献ですが、これまで直接手に取ったことがありませんでした。1年以上かかってしまった「石崎文庫」の整理が一段落したので、当文庫所蔵の「歓喜寺文書」の中にある「島郷土史」を読んでみると…
まず思ったのは意外にページ数が少ないこと。それに毛筆の手書きなのです。そして表紙が付いていない。元々なかったのか、コピーするときに抜けたのかはわかりません。毛筆書きの「島郷土史」の前に、ガリ版刷りと思われる「過去帳保存庫並に郷土史編纂に就て」と題した文書が置かれています。
しかしこのプロジェクトの実施主体がはっきりしません。島区民会とか歓喜寺護持会のような団体だったのか、個人有志に依るものだったのか。 続きを読む 「島郷土史」の目指したもの
(千城 央著「ゆりかごのヤマト王朝 一 照井党の巻」(2009.1.30 本の森発行)より)
主な登場人物
水沢照井党 建麻呂 (阿弖流為、アテルイ)
池月照井党 只牟呂
盛党 多賀嶋 (母礼、モレ)
安倍 乙志呂
坂上 苅田麻呂、田村麻呂
桓武天皇
三十八年の役勃発
呰麻呂の乱 (略)
北上川の戦い
軍神の出陣
三十八年の役終焉
□ 三十八年の役勃発
奥羽のみならず、信濃・駿河以東の東国では、重税と度重なる災害にあえいでいた。…
770(宝亀元)年10月、坂上田村麻呂の父である苅田麻呂が陸奥守鎮守将軍として赴任した。
苅田麻呂は、私利私欲に走らない篤実家(とくじつか)、平和共存路線を推し進めている。このため、奥羽の民は安堵し一揆は急減した。
ところが、…讒言(ざんげん)する者があり、翌年4月には都に戻して交代させてしまうのである。…
774年8月、磐城行方(なめかた)郡の周辺の百姓が前年の冷害のため飢えにあえぎ、食糧を得るため郡の食糧倉庫を襲って火をかけ、焼いてしまう事件が起きている。
これを受けて、都では陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍の大伴駿河麻呂にエミシ征討命令を下し、奥羽三十八年の役の幕が切って落とされた。 続きを読む 照井党 -アテルイの時代-
(千城 央著「ゆりかごのヤマト王朝 一 照井党の巻」(2009.1.30 本の森)(注1)より)
主な登場人物
池月照井党 道岳、奈穂岳、諸岳
水沢照井党 建俊、建伴、建麻呂(アテルイ)
盛党 継嶋、多賀嶋(モレ)
□ エミシの出自
…735(天平7)年4月、江合川の上流にあたる陸前玉造の荒雄(あらお)川は雪解けで水位を増していたが、淵と瀬の境の辺は、遡上するニジマスやハヤの絶好の通過場所で、ここに目を付けていた少年五人がやって来て、釣り竿に針を掛ける準備を始めた。… 続きを読む 照井党 -アテルイの前代-
(石塚喜墱著「照井庄誌史・系譜集録」(S60年頃か?)より)
《…照井家の始祖は照井武弘と称し、又押影中将とも言った。その居住地は照井庄と称していた、往古夷首阿弖流為(アテルイ)と言う者が居城していた城下部落である。城跡は山岳部にあって今は薬師堂が祀られてある(注2)。此処地は岩手県花巻市内の東南部に位置し今は東十二丁目と言われている。此の山岳の下は東北新幹線が通っている。… 続きを読む 照井・アテルイ・薬師館
石崎先生(平成6年(2004)没)のお宅が、県道バイパスの用地内に入ってしまい、昨年取壊され、移転しました。そんなこともあってか、石崎先生の蔵書が石崎家から島区民会に寄贈され、現在は「石崎文庫」と名付けられて、島コミュニティセンターの図書室にあります。
「石崎文庫」には、一般の市販本だけでなく、「東十二丁目誌」の原稿や東十二丁目関係の古文書等のコピーも含まれ、「内史略」と「南部叢書」の全巻も揃っています。 続きを読む 石崎文庫