虎戸を尋(たず)ねて -花巻同心と宮沢賢治-

先月7月に東京で「在京花巻人会のつどい」があり、30年(?)ぶりに出席しました。会長を務めている瀬川さんに昨年花巻でお会いしお話する機会があったので、出てみる気になったのです。

会場はお茶の水の東京ガーデンパレス、私には「お茶の水の私学会館」の方がピンときます。会は総会、市長他来賓挨拶、鹿踊(ししおどり)のデモンストレーション、食事・懇談と型どおりに進行しましたが、瀬川会長以外で私が見知った顔は矢沢中学校同期の高橋君のみ。散会したのが15時前、時間があったので、出るつもりのなかった二次会にも出てしまいました。場所は御茶ノ水ソラシティ(注1)のオープン(?)地下にある洋風居酒屋。

空いている席に着くと、向かいの席の方に声を掛けられました。そして話してみてビックリ!縁は異なもの…
お名前はトラトさん。私の父は中学校の教師をしていましたが、トラトさんは父の教え子でした。
トラトさんのお話では:-
・トラトは「虎戸」と書き、非常に珍しい苗字である。
・花巻新渡戸記念館に展示されている地図模型「花巻城下町」の中に、「虎戸」という名前が記されている。
・当時は同心だったようだが、元々はもっと上位の侍だったのではないか、
とのこと。

本稿では虎戸氏を尋ねて、彷徨(さまよ)ってみます。そして今回も賢治が登場します。

■虎戸氏
(1) 花巻新渡戸記念館に展示されている大型地図模型「花巻城下町(弘化年間(1844~48))」の左側(西方)に吹張御組の同心屋敷が表示されており、その中に「虎戸勇兵衛」の名が見える。
・この模型に「県立図書館「花巻城之図」による」と付記されていたので、「花巻城之図」の写真等をチェックしてみたが、吹張御組同心の名前は見当たらない。
他の資料(注2)を基に書き加えたものか。

(2) 「参考諸家系図」(注3)に「虎戸氏」はない。また稗貫氏の家臣団(注4)の中にも「虎戸氏」は見当たらない。

(3) 「日本姓氏語源辞典」(注5)で「虎戸」を検索すると、
《トラト【虎戸】  岩手県花巻市。事物。虎渡の異形。岩手県花巻市での伝承。同地では熊本県の出で「虎渡」と表記していたと伝える。》
とあり、その分布について
《全国 人口約10人  都道府県順位 1.岩手県(約10人)  市町村順位 1.花巻市(約10人)  小地域順位 1.花巻市花城町(ごく少数) 1.花巻市山の神(ごく少数)》
とある。

また「虎渡」については、
《トラト【虎渡】  秋田県鹿角市。事物。動物のトラから。秋田県鹿角市では1592年(文禄元年)~1593年(文禄2年)・1597年(慶長2年)~1598年(慶長3年)の文禄・慶長の役で虎を捕えて日本に渡ったことで賜ったと伝える。
トラワタリ【虎渡】  虎渡(トラト)参照。》
とあり、その分布は
《全国 人口約110人》
とある。

花巻城下図(江戸時代後期)
(右クリックで拡大表示できます)

■花巻御同心(抜粋)
(中島茂光著、「花巻史談第25号」所収、H12.3.31 花巻史談会発行)より

はじめに
今回は、盛岡市中央公民館からの資料3点を取り上げてみたいと思う。
その一つとして、跡式相続(慶応3年(1867))書上帳である。この書上帳は、祖父・父・子と3代にわたる名前と年代(隠居・死亡年令)について、それぞれ記されている。また向組同心(30名)・吹張町同心(30名)は小頭を3名任命し、町同心(10名)(吹張)については、2名であった。組の小頭を通じて各家々の跡目について、当時花巻城代であった桐生作善(200石)に差し出し、それを藩に提出したものであろう。尚、吹張町同心の中に、伊藤祐武美氏(注6)の先祖である伊藤半之丞の名がある。おそらく代々町同心であったろう。半之丞自身とくに武勇にすぐれ、その功績が認められて花巻御給人(注7)となっている。

次の資料は同心心得書で、…

最後の資料は、地方御同心配置である。…盛岡藩では、1,200人程度の同心が配置され、その内約800人位、盛岡城下に配属されていた。但し、花巻御同心(向御組)の場合、花巻市史によれば

……九戸政実が南部氏に対して叛乱を起した。南部信直は豊臣秀吉に援助を願い鎮定にあたった。秀吉は養子の秀次を総大将に、浅野長政を総奉行として大軍を発して政実を討った。長政が奥州を引きあげるとき、秀吉の命として信直に和賀、稗貫、志和の3郡を与え、又九戸の乱のとき、鳥谷ヶ崎城の守備にあたった一族の浅野重吉は、配下の一隊30人を残してひきあげた。この人達が花巻にとどまって花巻同心組となり、城内の二之丸の馬場口御門の下馬場に住居を与えられて住んだ。
その後、延宝8年(1680)御同心30人は桜町に屋敷をつくってもらい移った。……

現在では、桜町二丁目に2棟の同心家屋が残されている。…

尚、吹張町の御同心30人と、御町同心10人については、北松斎が花巻城代の時に召し抱えられたか、あるいは南部政直公の時代に配備されたものか、資料がないためよくわからない。

次にあげる参考文献、「(用語)南部盛岡藩辞典」(一ノ倉則文編)によれば、

○足軽
戦国時代の歩卒で、軽装し、弓、鉄砲を持った主たる戦闘員であったが、… 盛岡藩においては、足軽と同心は同一のもので、今日の警察官である。武士階級中最下位の者とされ、明治維新に際しては、足軽以上を士族となした。平時は城下の警衛、藩主外出の警護等に当り、一旦有事に際しては、上司の指揮に従って出動した。弓組、鉄砲組等がある。
盛岡藩においては、寛保2年(1742) 5月11日足軽を同心と改称するよう布達された。
多くは中央の制にならい、組屋敷と称して一定の場所に居住していた。与力の支配下に属し、原則として世襲であったが、若干の金をもってその苗氏家録を購(あがな)い、同心となった者等も多かった。……

○同心
武家の軽卒をいった。多く町奉行その他の上司に附随して雑務を執った。
盛岡藩においては、足軽と同心は同一の職名で寛保2年(1742) 5月11日足軽を同心と改称した。盛岡藩においては、同心は左の分掌によってそれぞれ組付となっていた。

 一、御持弓御同心  30人
 一、御先弓御同心  30人宛8組 240人
 一、御持筒御同心  2組 60人
 一、御先筒御同心  30人宛18組 540人
 一、御町組御同心  10人
   町奉行所届の同心で警察の事務に当った。
   このほか江戸においてお抱への御同心が15人あった。

右は文政支配帳によったのであるが、年代によって組数、人数に相違のあったことであろう。……

次の参考文献は、「不来方の賦」を出版した大正十三造氏によるもので、同心について次のように述べている。

○御徒と同心
諸士は「番方」編成のもとで、常に軍役に応じる体制にあったが、藩にはこのほかに、常備兵力として「御先手(おさきて)組」が置かれ、平時でも盛岡に800人、地方に200人ていどが配置されていた。御先手とは「足軽組」のことで、南部藩では重直公のときから「同心組」と呼び、1組30人で編成され、200石以上の組頭を「物頭」(者頭)と呼んだ。同心組には「鉄砲組」(錆(さび)衆とも)、「弓組」、「槍組」(長柄組とも)があり、組頭の屋敷を中心に「同心丁」に住み、訓練も勤番も一緒で、常に家族ぐるみの交際をしていた。
盛岡に22、3組のほか、花巻、三戸、七戸、田名部などの要所に常置され、沿岸の「御台場」(砲台)にも配備されていた。
同心には御先手以外の者もあり、盛岡の「十人同心」などは町奉行の配下として刑事警察の任務についていた。また地方代官所にも何人かづつの「所同心」がいた。
同心は戦時、平時を問わぬ「働き蜂」で、彼らのいないところ、何ごとも取り運ばなかった。利敬公のとき苗字を許されたが、身分は僱人(ようにん)で、平均して3駄2人扶持(18石相当)をあてがわれ、世にいう「五斗米(ごとべい)党」だった。幕末に近づくと「鉄砲組」が増強され、「弓組」にも鉄砲を習わせたが、「槍組」は「御長柄之者」と呼ばれ、平均2駄2人扶持と一段低く、小者身分で、長屋に住んでいた。…

同心より一段上だったのが「御徒(おかち)組」で、平均6駄2人扶持(24石)を受け、100人ほどの定員だった。…

(一) 跡式相続書上帳

  覚

弘化元年12月10日父喜七  隠居ニ付 跡式相続被仰付  小瀬川皆蔵
慶応3年2月19日父皆蔵  死亡ニ付 跡式相続被仰付  小瀬川要蔵

嘉永3年(1850) 9月12日父源八  死亡ニ付 前同断  虎戸勇次郎
慶応2年(1866) 正月10日父勇次郎  隠居ニ付 前同断  虎戸松(カ)

右之通此度御沙汰ニ付  花巻御同心跡式相続年月日書上仕候  以上

慶応3年(1867)  2月
              小頭 小瀬川理八  印
              同  乙部勘右エ門 印
              同  小瀬川新兵衛 印

御城代  桐生作善様

〈以下省略〉

(二)御同心心得書   〈省略〉

() 地方御同心配置(万延元年(1860))

○盛岡御同心   〈省略〉

〇三戸御同心   〈省略〉

○花巻御同心
一、270駄  1人ニ付3駄2人扶持   御先弓 30人
一、270駄  同断         御先筒 30人
一、 90駄   同断         町同心 10人

○七戸以下13所御同心   〈省略〉

以上

岩手軽便鉄道釜石線跡
(右クリックで拡大表示できます。)
「瀬川」改修の結果、下流部は「後川」となった。

山地の稜  (抜粋)      宮沢賢治作

この「山地の稜」は、初期短編と呼ばれる小品の一つで童話ではありません。題の「山地の稜」は遠くに見える薬師岳の稜線についても書いているところからつけられたものです。
稗貫農学校(現在の総合花巻病院)付近から小舟渡(こぶなと)、イギリス海岸方面に歩いてゆく賢治が、途中で眼にしたものをスケッチ風に書いたものです。賢治は大正10年(1921 25歳)から15年まで農学校の教師でした。
近道するために危険な岩手軽便鉄道の瀬川にかかる鉄橋を渡ります。花巻の景色や人々の姿が生き生きと描かれていますが、話のなかの鉄橋も線路ももうありませんし、賢治が道であった女性の話す美しい方言もほとんど聞かれなくなりました。
途中で唐突に「虎戸」兄弟が出てきます。賢治の教え子だったのでしょうか。

高橋吉郎が今朝は殊に小さくて青じろく少しけげんさうにこっちを見てゐる。清原も見てゐる。たった二人でぬれた運動場の朝のテニスもさびしいだらう。そのいぶかしさうな眼(め)はどこかへ行くならおれたちも行きたいなと云いふのか。それとも私が温床(おんしょう)へ水でも灌(そそ)ぐとこかも知れないと考へてゐるのか。黄いろの上着を着たってきっと働くと限ったわけぢゃないんだぞ。私は今朝は一寸(ちょっと)の間つめたい草を見て来たいんだ。だから一人だ。つれて行かない。大事なんだから。
温床とこはれた浴槽(よくさう)
こゝの細い桑も今はまったくやはらかな芽を出した。その細桑の灰光は明らかで光ってそしてそろってゐる。
すぎなは青く美しくすぎなは青くて透明な露もとまって本当に新らしいのだ。
右手の奥の方では寄宿の窓のガラスも光る。黄ばらのひかり、すぎなと砂利。

これはレールだ。
それから影だ。手帳。
ゆっくり行けば朝のレールは白くひかる。強くて白くかゞやく、
子供のうすい影法師、私は線路の砂利も見る。
ごくあたり前だがぬれてるやうな気もします。
工夫(こうふ)がうしろからいそいで通りこす。横目でこっちを見ながら行く。少し冷笑してゐるらしい。それでもずんずん行ってしまふ。万法流転。流れと早さ。も一人あとから誰(たれ)か来る。うしろから手帳をのぞき込まうとするのか。それでも一向差支さしつかへはない。やっぱり工夫だ。ところが向ふのあの人は工夫ではなかったんだな。大工か何かだったな、どてをのぼって草をこいで行ってしまふ。
この横が土木の似鳥さんの泊ってゐる家だ。女もゐる。そのうちの前で手帳なんかをひろげたって一向気取ったわけぢゃない。
(紙の白と直立。)
一向気取ったわけぢゃない。しなければならなくてしてゐるんだ。けれどももしこれがしんとした蒼黝(あをぐろ)い空間でならば全くどんなにいいだらう。それでも仕方ない。

低い崖(がけ)と草。草。東の雲はまっ白でぎらぎら光る。
虎戸(とらと)の家だ。虎戸があすこの格子からちらっとこっちを見たかもしれない。けれどもどうも仕方ない。あすこの池で魚を釣ってゐるのは虎戸の弟だ。たしかにさうだ。
立派だ。この雲のひかり Sun-beam がまさしく今日もそゝいでゐる。
雲は陽(ひ)を濾(こ)す、雲は陽を濾すとしようかな、白秋にそんな調子がある。

向ふから女の人と子供がやって来る。みたやうな人だ。純哉(じゅんや)さんのうちの人だ。知らない風で行かうか。何か云ひさうだ。とまる。
云ふ云ふ。
「まんつ見申したよだど思ったへば豊沢小路(としゃこうぢ)のあぃなさんでお出ゃすた。おまめしござんしたすか。」この人がこんなに云ってくれるとは思はなかった。…

瀬川鉄橋を渡る岩手軽便鉄道車両(宮沢信一郎撮影「岩手軽便鉄道」林風舎)

汽車はのぼって来るのぼって来ると子供が云ってゐる。人は影と一緒に向ふへ行く。私も行く。
雲が白くて光ってゐる。早池峰(はやちね)の西どなりの群青(ぐんじゃう)の山の稜(りょう)が一つ澱(よど)んだ白雲に浮き出した。薬師岳だ。雲のために知らなかった薬師岳の稜を見るのだ。…

鉄橋のこっち岸の石垣(いしがき)を積み直すのだ。今日はずゐぶん人が来てゐる。…
もう鉄橋を渡って行かう。鉄橋を渡るときポケットに手を入れて行くのはいゝにはいゝんだ。下でも人が見てゐるし。けれどもやっぱりごく堅実に渡って行くのだ当然だ。…

渡れ渡れ、一体これではあんまり枕木の間隔がせますぎるのだ。大股(おほまた)に踏んで行かれない。もう水の流れる所も通ったし、ずゐぶん早い。この二枚の小さな縦板は汽車をよける為(ため)のだな。こゝで首尾よくよけられるだらうか。もし今汽車がやって来たらはねおりるかぶら下るかだ。まづすばやく手帳と万年筆をはふり出すことだ。それからあとはもう考へなくてもいゝぞ。
すぐ向ふ岸だ。砂利の白や新鮮なすぎな。
着いた。立派な野菜だごぼうや何か。
すなつち。
馬は黒光り、はねあがる。はねあがれば馬は竜だ。赤い眼をして私を見下す。            〈おわり〉

[補足]
(1) 御茶ノ水ソラシティ:JR御茶ノ水駅東口にある複合施設。当地には元々日立製作所本社ビルがあったが、2010年に解体され、高さ110mの超高層ビル「御茶ノ水ソラシティ」が建設された。日立本社ビルが竣工したのが1983年だったので、この大型ビル(高さ90m、延べ床面積57,000㎡余)の寿命はわずか27年であった。
これは日本企業の先見性の無さを示すものなのか、それとも高度成長期の日本のダイナミズムの表れか?!

(注2) 「万丁目通城代支配地境絵図(安政五年) 一日町四日町付近図」:花巻新渡戸記念館に問い合わせたところ、この絵図を参考にしたとのことでした。なお現在この絵図の所蔵先は不明。

吹張御組同心屋敷
(「万丁目通城代支配地境絵図(安政五年) 一日町四日町付近図」より)
(右クリックで拡大表示できます)

この絵図にある「虎戸勇兵衛」と跡式相続(慶応3年(1867))書上帳に記されている「虎戸勇次郎」は、年代から見て同一人物と思われます。
(注3) 「参考諸家系図」(さんこうしょけけいず):南部藩(盛岡・八戸藩)の南部氏一門をはじめ、藩士2,700余名にも及ぶ所伝の家系図集である。復刻版全5巻が国書刊行会によって1984年から1985年にかけて出版された。
(注4) 稗貫氏家臣団:若宮次郎著「観光と花巻物語」(S50.10.10 花巻歴史研究会発行)に依る。

(注5) 「日本姓氏語源辞典」こちらをご覧下さい。
宮本洋一氏が個人で制作しているもののようで、大変な力作と思います。
検索窓の少し下の方にある「編集方針・凡例・用語集」も興味深いものです。
この辞典の精度は如何ほどかと気になり、簡単な試算をしてみました。
この辞典に依れば、花巻市内の「佐藤」は約7,500人、比率6.45%とあるので、これから逆算した花巻市の人口は116千人余。花巻市の現在の住民登録者数は96千人余なので、辞典の方が20%強多いことになります。これをどう評価すべきか?

(注6) 伊藤祐武美(いとうすけぶみ):1901~1990。岩手観光タクー社長、花巻温泉取締役を務めたほか、全国の現職市議会議長とては最長の34年間 (花巻町議長時代を含めると41年間) 議長を務めた地元名士であった。

(注7) 花巻御給人(ごきゅうにん):⇨ 在々御給人
(1) Wikipedia「盛岡藩」より:
代官の下に、下役以下各種奉行その他の役職を務めさせるため「御給人」を置いた。藩士とは区別され、城下を離れた在町に土着して、自ら農業もしくは商業を営みつつ士分に準ずる待遇を受けている者のことである。形式的には苗字帯刀を許され、知行が与えられるが、この知行地は自己所有の石高の全部または一部を知行地として認められたものである。 その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。

(2) 清水克志・他著「近世中期の盛岡藩における知行形態と…」より:
盛岡藩における知行取り給人は,大きく分けて二つの種類に分類される。一つは「諸士」と呼ばれる藩庁の職務に従事している給人であり、もう一つは「在々御給人」と呼ばれる、各地の代官所に所属し、そこでの職務を補佐する給人である。「書上」(「諸士知行所出物諸品并境書上」(元文3年(1738))で確認できる人数はそれぞれ、「諸士」が 455 名、「在々御給人」が 361名である。「諸士」は100~200石前後の石高を拝領している層が多く。500石以上の高禄の給人もみられるが、「在々御給人」では、そのほとんどが50 石未満である。…
「在々御給人」の多くは,盛岡以北に所在する12の代官所に所属しており、その給地も所属代官所内の村にある場合がほとんどであった。

(2018.8.10掲/9.9改)

「虎戸を尋(たず)ねて -花巻同心と宮沢賢治-」への1件のフィードバック

  1. 「虎戸氏」に関して補足を加えました。

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