「東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (1)

東十二丁目(655㌶(注1))の東側半分近くを占める第10地割(123㌶)、第18地割(92㌶)、第19地割(96㌶)、合わせて311㌶の大半を山林が占めている。この山々の標高は、第10地割の最高地点が192.2m、第18地割と第19地割では夫々233mと209.4mである。なお麓の歓喜寺の前庭が70.1m。
東十二丁目の住民はこれまでこの山々とどのように関わってきたか?

1) 本誌(注2)「第7章 近 代」/「第9節 山林等の調査」の「山の所有」の項に、《藩政時代の山林原野は初頃は知行地に含まれていたが、寛永7年(1630)からは藩の直轄支配となった。…その後宝暦8年(1758)には領内山林の総検地も行われ、御山書上帳が作られたという。》とある。
しかしこれは山林等の藩と藩士に関することがらであり、本誌には、近世の東十二丁目村村民が山林にどう関わっていたかの記述はない。

山林は、家畜(主に馬)の飼料・燃料・建築用資材(木材・屋根葺き用萱(かや))等の生産場所として、当時の村民にとって必要不可欠なものであったはずである。田畑の場合は、知行地であろうが蔵方分(藩直轄地)であろうが、個々の農家が特定の土地を耕作し、年貢を納めていた。山林はどうだったのか?

2) 同節「調査実施」の項に、「山林原野池沼等調査 地割別集計表(明治10年 東十二丁目村)」が載っており、そこには地割別に山・山林・野・溜池水溜沼地・湧水・山・草生地別の面積が記されている。それによれば合計65町歩(≒㌶)余、その他に山 15ヶ所、野 8ヶ所とある(これらには山地部のみならず平地部にあったものも含む)。65町歩という数値は前掲の3地割合計311㌶に比べてかなり小さい。

・この調査書の末尾に《右は今般民有山林原野池沼等の地所反別取調方仰出(おおせいだ)され候(そうろう)に付、各地主立会い、一筆限り精密取調候…》とあり、集計表の土地は持主を特定できる民有地だったことが分かる。

3) 同章「第10節 官地借用」の「草地等官地になる」の項によれば、《明治10年の山林等調査によって、官地と民有地が明確に区分され、大幅に官地が増加し、農家では飼育する馬の秣(まぐさ)の刈取地や、萱(かや)苅り場にも困るようになった為と考えられるが、翌11年に村の総力をあげて官地の借用を願い出ている。…資料の様に許可され、5ヶ年間の鑑札が各人に交付された。》
借用が許可された土地は合計77町歩余。当時東十二丁目に官地が全体でどれ程あったかは不明。

4) 現在では東十二丁目の山林は、道路などの公用地を除いて、全て私人又は私企業が所有する私有地と思われる。明治10年に官地とされた山林がどのような経緯を経て私有地になったものか?

東12丁目 第10・18・19地割
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1. 藩政期の山
(1)盛岡藩の山林統制(注3)
1) 領内の山林資源は、寛永7年(1630)以前においては藩士の知行地の山林も知行高に含め、知行主(藩士)が支配するというものであった。ところが、寛永7年の改革により、これ以降は藩士の知行地を田畑のみに限り、藩領内すべての山林原野が藩の直轄地に編入されることとなった。

2) 盛岡藩における山林・原野の区分・性格を明確にすることは難しいが、管理・収益の主体を基準として分類するとおおよそ次表のようになる。

山林の種類 管理・収益
の主体
所有者
御山 御留山
御囲山
御明山
水ノ目御山
御野
高ノ目山 個人
居久根山
山野
取分植立山 藩と植栽者

御山とは藩が管理・経営する最も重視された山林であり、これはさらに以下のような性格を有する留山・囲山・明山・水ノ目山に分類されていた。
留山とは特に木性の良い場所を指定し、御用木の他は伐採しない非常用造林地である。
囲い山とは良質の檜を産出し、平時は伐採せず不時の用に備えて囲いをしていた山である。
-御山のうち、留山・囲山以外の山を明山といった。ここでは御用材の生産だけでなく、百姓の需要による伐採も行われ、入会山的性格が強い。
水ノ目山は水源涵養のために禁伐とされた山林であった。
・これらと同様に、管理収益の主体が藩にあるものとして御野がある。これは藩の管理下の原野として、主に野馬育成のための牧場として利用されるものであった。
・管理・収益の主体が村であるものとして山野が、主として百姓などの個人にあるものとして高ノ目山や居久根山が定められていた。これらは百姓が生産・生活資源(肥料・建築材・薪炭など)を自由に採取できる山林であった。
高ノ目山は村高に編入されている山林であり、田地が荒廃して山林化したもので、租税対象となった。
居久根山は宅地に接続する山林であるが、百姓が建築材として利用する場合は届け出て許可を得ることになっていた。
・管理・収益の主体が藩と藩士や百姓にあるものとして、取分植立山がある。これは藩士・百姓が杉・松などを植立て、その収益を藩と植栽者が一定の比率で分収するいわゆる部分林である。

3) 以上のような領内における山林の管理は、勘定奉行・山林方・地方代官・山奉行・山守によってなされたが、実質的な管理者は山奉行と山守であった。
山奉行は各通(とおり)の代官所に勤務し、春秋2回所轄地域の見廻りを行い、山守は日々の巡回を行うなど、日常的な管理を担っていた。この山守は、主に山下の村の上層百姓が官選によって任命された。

4) 土地は林野を含めて個人の私有を認めないのが徳川幕府の当初の原則であった。しかし社会が安定し、通貨が社会経済の重要な要素を占めるようになると、土地売買の禁が崩れて、田畑や宅地の売買が漸次公然化してきた。そして山林の売買も公然と行われるようになった。

(2)東十二丁目では
1) 東十二丁目における山林等の上記種類に関する史料は見当たらない。
・享保20年(1735)に書かれた山林等の「産物書上帳」に「東十二丁目村山守」として3名の名前と押印がある。(注4)

2)天保検地絵図面:本誌の著者である石崎先生が収集した古文書の中に「古川(友)家文書」として、天保14年の検地の際に作られた東十二丁目村絵図面27枚がある。
以下にこの中から「ぬ印」(第10地割)、「そ印」(第18地割)、「つ印」(第19地割)の3ヶ地割の小絵図を示す。

小絵図ぬ印
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小絵図そ印
小絵図つ印

・絵図の中に8ヶ所の「御林」が見えるが、「御林」とは何かは不詳。
 押切御林(ぬ印(第10地割)
 寺ヶ平御林、天神御林(そ印(第18地割)
 天王御林、石崎御林、山神御林、虚空蔵御林、居久根御林(つ印(第19地割)

3)当時既に山地部に相当の地番が振られているが、これは検地の対象になった田畑や居屋敷(宅地)である。
 ぬ印(第10地割)  1~204番(欠番又は不明のもの16件)
 そ印(第18地割)  1~106番
 つ印(第19地割)  1~165番(欠番又は不明のもの4件)

・山地のかなり奥にも田畑が開かれているのが見て取れる。例えばそ印(第18地割)の大沢を登りきった更に先、尾根に近いと思われる辺りに1番から12番の土地がある。1番 源左ェ門 畑3切、2番 重治 畑3切、…6番 多助 田5枚、…。現在ではこの付近は全くの山林である。

2. 明治初期の山
(1) 岩手県の林制
(注5)
・明治5年(1872)2月(大陰暦)に太政官令によって、何人といえども、土地を持ち、或は売買してもよいという基本が示された。また明治6年には地租改正条例が公布されて、土地の所有者は、地目の種別を明瞭にし反別や等級を定め、地価に応じて一定の税を納めるという事になった。

岩手県では田畑・宅地などは明治8年に調査したが、山林原野の席上調査が明治9年に漸く集計した程度で、その実測は其の後に延びた。従って明治10年頃までの本県の林野は、民有(共用その他を含む)と官有のものを区分するに精一杯であり、実際の測量は伴わなかった。
明治12年の本県の山林原野は、総計51万町歩余(≒㌶)で、内民有林は47万町歩余程度であろうか(山岳などは含まず)。

 1) 山林の類別  明治5年6月、岩手県より大蔵省に陸中国(当時の全県下6郡)の林政慣行について書上げ報告している。それによれば :-
・留山:旧盛岡藩非常用材立林であり、平素の用材には使用せず。全く官林に見なすべき山林。地所を払下げた場合は、地代年100分の1。
・歩合取分山:前記留山中に許可を受けそこに植林し、成木後に歩合を植林者が取得するもの。当局と植林者間に契約書が交わされるのを原則とする。
・札山:関係村々が共同植林し、その成木は当局又は村方の建築用材に充てるも、その取得は概ね村方であった。藩は制札又は券状を下付するのみ。
・水ノ目山:水源地保護の必要上存置設定された保安林で、当局の管理下にあったもの。
・持山:個人の自由になしうる立林。
・村預け山:入会たる共有山林。
・炊料(たきよう)山:最寄りの村々に随時解放し得る範囲に設定されるもの。
・高ノ目(たかのめ)林:従来からの有税地で、米に換算して(石盛制)年貢を納めていた山林。土地の私有が公認されていたので、地租制度が定まると、官私区分に際して直ちに民有地として認められた。

2) 新制度下における二三の施策例
・境界標建設の指示: 明治7年5月に官・公・私有の山林原野に関し、全て標杭を建設させ、各境界が一見して明らかになるよう指示した。
・苅敷の採取は自由:明治7年7月には、肥料として苅敷を取ること、飼料として秣を採取することは、官山に入るも妨げなしと布告した。

3) 存置林調査: 明治7年6月、内務省から派遣された官吏らにより、岩手県管下で存置すべき山林が調査され、総計234ヶ山が存置すべき山林として報告された。後に一等官林といわれたのはこの存置山林であろう。これ等の山の8、9割は北上川以西にあった。

4) 官私区分: 明治7年12月に至り、県では山林の官有私有の区別を為すべき方針を定め、これを内務省に稟請して指示を仰いだ。
・藩政時代に於いては個人の所有が認められないのを原則としたが、藩政末期に至り、財政上の必要から、種々の利権を附与したなどの事情が絡んで、官有・民有の区分の上に支障をきたすような複雑な問題をはらんでいた。
ことに事情に疎い新来の県官ではその判定に至難な問題があった。

私有林として公認されるためには持主が売買証文などの「山林持始末」の提出を求められたが、明確な支証がない場合も多かった。

・明治8年4月に内務省から布達があり、官林は一等官林と三等官林に区分することになった。明治7年8月制定された存置官林は保護を加え保存し続ける山林として一等官林に、民間に払下げてもよい官林は全て三等官林に指定された。二等官林は未定のままであった。

・明治9年5月に至り一応旧管内の山林・原野・荒蕪・池沼等の官私区分の席上調査を完了した。その集計を見ると左の如くであった。

 総計 95,007筆(但し明治7年に一等官林に編入された234ヶ所を除く)
 内 官有   11,791筆、 民有 82,156筆
   区分未定    1,057筆、 論地          3件

・以上の成果を得て報告し、其の実測面積は明治10年より測定してこれを報告せんことを上申した。しかし内務省からは直ちに実測に着手するようにとの指示があった。

5) 民有林野の実測: 民有に属する山林地租は、全国一般明治9年をもって実施になった。然るに岩手県においては、官私区分の調査が、席上調査が明治9年5月に旧管地域を終り、翌10年5月に全管内を結了したので、同年5月に民有林野の実測並びに地価調査に着手した。
– 民有林野は同年12月末の報告によって約513,000町歩と知られたが、地価はなお未調定に終って翌年に持越された。
– その後明治15年頃になると、官有林・民有林の反別も大方定まった。
– 民有林野は、その反別や地価が決定するに及んで、その地租が定まり、一定の税金を納入することとなり、一方売買も自由に行えるようになった。

・山林の官私区分や、民有林野の実測に際して、県当局は内務省等と頻繁に連絡を取りながら事に当った。時の岩手県令 島惟精(注6)、内務卿・地租改正事務局総裁 大久保利通であった。

・県では、内務省地理寮官吏の指導を受けて官私区分を進めたのであるが、その処置は当地の実情を知悉してのものでなかったので、適切か否かに問題があった。
それまで民有であったが、支証不十分で官林に編入されたとか、支証文献を官歿されたとか、課税を嫌って無理に官有に入れたとか、その他多くの問題を含んでいる。
また、このような山林台帳の作成に際して、旧藩以来の山肝入や山守、または当時の役人等が、合法的にあるいは地位を利用して、山林地主になることもそう難しくなかった、ということもあり得たであろう。
いずれにしても明治・大正・昭和に続く山林争議には、この官私区分に絡む問題が多い。

(2) 東十二丁目では
1) 石崎先生が収集した古文書の中に、「小田島(一)家文書」として地割別の小絵図26枚があり、文書上には記されていないが、先生作成の目録に「明治8年(1875)」とある。
明治8年と言えば、官私区分の席上調査が行われていた時期である。
以下に第10地割、第18地割、第19地割の小絵図を示す。

第10地割小絵図
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第18地割小絵図
第19地割小絵図

・これ等3ヶ地割の地番を見ると、次のようになっている。
  第10地割:1~270(欠番又は不明のもの17件)
  第18地割:1~209(欠番又は不明のもの5件)
  第19地割:1~296(欠番又は不明のもの?件))

2) 先述の天保検地絵図とこの絵図を比べてみると:
・前者が検地対象の土地のみに地番が振られているのに対し、後者では全ての土地に地番が付され、筆数が前者に比べてかなり多くなっている。
・地目についてみると、前者では田、苗代、畑と居屋敷(宅地)の4種であるのに対し、後者では田、開墾田、荒田、畑、開墾畑、荒畑、宅地、墓、溜池・水溜、林、山、草地、野と13種に細分されている。
・「林」と「山」の違いは不分明。「林」にはかなり狭小なものが多くあり、個人所有の民有林のように思えるが、「山」が官地とは限らないようである。

3) 本誌の第7章 近代 / 第10節 官地借用の「草地等官地になる」の項に《明治10年の山林等調査によって、官地と民有地が明確に区分され、大幅に官地が増加し、…》とあるが、これは東十二丁目村(民)が私有地であると申立てたにもかかわらず、私有地として認められなかった土地が多くあったということか。

 [補足]
(1) GoogleMapでの図上測定値
(2) 「東十二丁目誌」 石崎直治著、H2.2.28 同人発行

(3) 「盛岡藩領五戸通における御山支配と山林利用」(「農業史研究 第44号」 (日本農業史学会 2010))に依る。
(4) 「東十二丁目村 産物書上帳 享保二十年」参照
(5) 「岩手県史 第9巻 (近代篇 第4)」(岩手県著、1964 杜陵印刷発行)の「第6章 本県産業の変遷」/「第2節 林業と林政」に依る。

(6) 惟精(しま いせい):東十二丁目の別称である「島」やリンゴ博士で有名な「島 善鄰」とは関係ない。天保5年(1834)、豊後国大分郡において延岡藩代官・阿南胖助の2男として生まれ、府内藩医・安東芳庵の養子となり、のち島姓を名乗った。
なお、島 善鄰(しま よしちか)は明治22年(1889)、陸軍軍人・島 時中の5男として広島県広島市に生まれる。8歳の時に父が亡くなり、岩手県稗貫郡矢沢村(現・花巻市)高木(父の本籍地)に移る。妻の浦子は、4代目瀬川弥右衛門の妹であった。

(2019.4.14掲)