東十二丁目落穂拾い:塚根の首斬り場

東十二丁目の歓喜寺の裏山は東崗(ひがしおか)公園と呼ばれています。この山の中腹までは車で登ることができますが、そこに小さな駐車場があって、車は行き止まり。この駐車場の脇に5基の石碑(上掲写真)があります。
今回はこの石碑にまつわるお話です。
5基の石碑は「馬頭観世音」2基、「尾崎供養」1基、「大乗妙典日本廻国」2基です。そしてこれらは「東十二丁目誌」(注1)に「位置:東崗公園(旧塚根)」とあります。

■小学校の同級生O君に聞いた話:-
東崗公園のこれら5基の石碑は元々塚根の高島道路脇にあったもので、道路の拡幅工事のため撤去され、道端に放置されていました。O君はこれを見るに忍びず、市役所だか市会議員だかに掛け合って、今の場所に移したのだそうです。昭和50年代末のことと思われます。

この塚根にはその昔首斬り場(刑場)があったとのこと。
O君が子供の頃には、刑場跡に古井戸が残っていて、この井戸の水で斬首した刀を洗ったと言い伝えられていました。
当時でもお盆の頃には近所の人が線香や花を手向けていたそうです。子供達には気味の悪いところで、走って一気に通り抜けたのだとか。

■この話を他の人に聞いてみたところ:-
同級生のMさんは知っていたのですが、Mさんの兄さんは知らないとのこと。また2級上のKさんにも聞いたのですが、やはり憶えがないと… 実際はどうだったのでしょうか?!

■東十二丁目に本当に刑場があったか?
ネットと文献を少し調べてみたのですが(注2)、東十二丁目に刑場があったという記録は見つかりませんでした。
花巻城代(郡代)が管轄していた領域内に刑場(南部藩では刑場を「殺生場」と言った)が何ヶ所かあったらしいですが、場所がはっきりしているのは1ヶ所のみ。それは花巻向小路、現在の花巻市桜町4丁目で、東十二丁目の北上川をはさんだ反対側です。殺生場跡の近くに処刑された人を供養する地蔵碑が建っているとのことです。
もしかして、殺生場は固定した場所以外に、処刑ごとにその場所を決めるという事があったのでしょうか…?

■塚根とは?
首斬り場があり、高島道路沿いに「大乗妙典日本廻国」など5基の碑が建つ塚根(つかね)とはどんなところだったのか?
私のおぼろげな記憶では、塚根は我家のあった荒屋敷(あらやしき)の南隣で、穂貫田(ほぬきだ)の北に位置し、「塚根」というバス停があったように思います。あるいは穂貫田の一部を指すのかもしれません。
現在の地図を見ても近世の絵図を見ても「塚根」という地名はほとんど見かけません。ゼンリンの住宅地図にはあるのですが、高島道路からはかなり西側、堤防近くの農地の中に記されています。

[補足]
(注1) 「東十二丁目誌」
:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(注2) 参考資料
 ① 「江戸時代の刑罰施設 / 東北諸藩の刑場・牢屋」
 ② 「稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる」(2014.7.25 稗貫・和賀の百姓一揆を語る会発行)の「2.4 藩の処刑場 花巻向小路殺生場」

(2020.2.25掲)