あづま海道・再々考

「あづま海道」については、5年前に「あづま海道とは何か」と「あづま海道・再考」と題して2回取上げました。今回はその後得た知見も加えて改めて「あづま海道」について考えてみます。

1. あづま海道とは
あづま海道は平泉から紫波東部まで、主に北上山地西麓を通っていた古代・中世前期の道で、近世には既に廃れてしまっていた、とされる古道です。
この古道の探索と選定が10年以上前から試みられ、奥州市と北上市内のルートが選定されています (奥州市内の約9kmは「東北自然歩道 新・奥の細道」の「東街道を訪ねるみち」として認定・整備された)。また花巻市と紫波町でもルート選定の動きがあるようです。

この「あづま海道」の探索・選定活動に大きな影響を与えたのが「あづま海道 -清衡道とその風土-」(佐島直三郎編 1993)です。本書に示されたあづま海道のルートは大略下図のようなものです。

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2. 佐島説の評価
(1)
「あづま海道 -清衡道とその風土-」の序文「『あづま海道』刊行によせる」(高橋富雄・筆)より:
「あづま海道」。これは「まぼろしの海道」です。どういうものであったか、どうなったか、どうなっているか、皆目見当がつきませんで「ナゾ」のままになってきました。
「あづま海道」はそのように「まぼろしの道」、「ナゾの道」なのですが、それにもかかわらず(というより、むしろそれゆえに、…)、わたしたちに、歴史に対する限りない「夢」をはぐくんできた「ロマンの道」です。…
この大切な文化遺産を、たしかに受けついだことのあかしに、これを実際について確かめ、次代に譲り渡していくねがいをこめて、この「歩く会」結成となり、2年にわたる「親試・親験」の合同踏査となり、その「おもい」と「ねがい」とをこめてのこの異色の報告書の刊行となったのです。

(2) 阿部和夫著「『あずまかいどう・あづま海道・東海道』を探る⑤」(H22.7.17 胆江日日新聞)より:
佐島直三郎先生らの『あづま海道-清衡道とその風土』は、「あずまかいどう」が、北上高地西端のどこを通っていたかを探る貴重な研究書である。
しかし東北における古道の研究は、佐島先生らが「あづまかいどう」を取り上げたときに比べて、かなり進展している。このため同書によって解決済みだった問題も、再度検討しなければならない事態を迎えている。
その一つは、副題になっている「清衡道とその風土」でわかるように、「海道」の成立、あるいは利用の時期を奥州平泉の藤原清衡時代としていることである。
二つは、「あずまかいどう」の南端を、平泉町月館付近で北上川を渡り、衣川の十日市場付近に向かっているとしていることである。

佐島先生らが『あづま海道』を、あえて「清衡道」としたのは、奥州平泉の初代藤原清衡が、嘉保年間(1094~96)に、江刺郡豊田館(城)から平泉に移り、2つの政治の拠点を結ぶ道としてさかんに利用したことによるものである。
「あずまかいどう」が、奈良~平安前期に成立したと見る立場からすると、この時期は藤原氏の台頭や奥州平泉が成立する前にあたり、人々が北上川を渡って衣川十日市場に向かう必要はなかったのである。
北上高地の西端を南に向かう「あずまかいどう」は、江刺郡から(磐井郡の)母体村・赤生津村に入っている。この先で北上川を渡らないとすれば、道はどこに向かっていたのだろうか。…

(3) 「あづま海道について」(平成28年度あづま海道連絡協議会講演会資料 講師:相原康二)
◆あずまかいどうの起源―現状では不明というほかない。
…佐島直三郎氏は平成5年に『あづま海道-清衡道とその風土-』を責任編集され、(江刺)郡志(注1)と同様の奥州藤原氏時代説に立ち、「清衡道」という呼称をもちいている。ただし、いまひとつ有力な根拠に欠ける。

3. 極楽寺以北
「あづま海道・再考」に私は「古道が北上山地の西麓を極楽寺から蓮華寺まで通じていたことは確かとして、3郡(和賀・稗貫・紫波)内でこの道を「あづま海道」と認識していたことを示す文献・口碑の類はないようです。」と書きました。
しかし「岩手県の地名」(平凡社 1990)の「比爪館址(紫波町南日詰 箱清水)」の項に「近くをあずま街道と伝える古い道が通る」と記されているとのことです。また山田安彦氏(注2)は「この道路(紫波町犬渕)を地元では「鎌倉街道」、或は「あづま道」ともいう」と記しています。
佐島説で想定されたあづま海道の位置からは少し外れますが。
山田氏は同論文のなかで「矢巾町字太田に「海道町」という地名もある」とも記しています。

4. パンフレットが語る「あづま海道」
(1) あづま海道 北上地区 平安のロマンあふれる文教の道
      (北上あづま海道歩く会 H26(2014).4)

東北地方に延びる官道は勿来の関が終点であり、その先は道の奥地(みちのく)と云われておりました。
勿来の関から多賀城に至り、さらに北上川を遡り磐井・江刺を経て、和賀に至り、稗貫・紫波へと続いた古道が「あづま海道」です。その古道は北上川の東岸の丘陵を南北につながり、道沿いには神社・仏閣が点在しており、古代の寺跡や仏像が多く残っています。

(2) あづま海道[東街道]を歩こう
   (季刊胆沢ダム通信「ササラ」第33号 胆沢ダム地域づくり連絡会 H15?)

アテルイと坂上田村麻呂率(ひき)いる朝廷軍とが激しい戦いを繰り広げていた古代の東北には、京都から多賀城を経て紫波城までを結んでいた「あづま海道」と呼ばれていた古道がありました。…
■ 1200年以上も昔の国道
大和朝廷は、奈良・京都を中心に、全国を統一しようと勢力の拡大を図っていました。そして、大化元年(645)詔勅(天皇が公に意思を示す文書)の中で、全国に「官道」の設置を指令しました。
官道とは、今でいう国道のようなもので、東北地方へのびる道は、北陸道、東山道、東海道の三つのルートがあり、それぞれ鼠ヶ関(ねずがせき)、白河の関、勿来(なこそ)の関が終点となり、その先を道の奥地(みちのおく)と呼んでいました。
あづま海道は、勿来の関から多賀柵(たがさく)(城)に至り、さらに北上川を北上しながら衣川→江刺→紫波へと続いていたと考えられています。

(3) 新・奥の細道 東北自然歩道 〈東街道を訪ねるみち〉
      (水沢市生活環境課)

「東街道」は、奈良時代からあった道で、陸奥の菊多関(福島県)から多賀城国府(宮城県)を経て、更に北上川を北上して岩手に入り、磐井、江刺、稗貫を通って紫波へ続く道でした。
その昔、征夷大将軍「坂上田村麻呂」や蝦夷の首領「阿弖流為」などが、戦いの攻防に駆けめぐった道と言われています。また、仏教文化もこの道を通って伝えられました。

(4) あづま海道 古代ロマン紀行
      (母禮(もれ)をたたえる会 H25.1.31)

大化2年(646) 朝廷は詔勅を発し、全国に官道の設置を命じた。その一つである東海道は勿来(菊多)関が終点で、その先は多賀城を経て志波城へと続くあづま海道と呼ばれる道が伝えられてきた。
前沢区では、平泉から箱石橋下流で北上川を渡り、赤生津・母体地区を経て黒石につながる古代の生活の道であり、文化の道、信仰の道、そして阿弖流為・母禮の蝦夷連合軍と朝廷軍との激しい戦いの道でもあった。

5. 結局「あづま海道」とは何だったか?
(岡 陽一郎(注3)著 「地域認識と幹線道路-いわゆる「あづまかいどう」を材料に-」 (東北学院大学東北文化研究所紀要 2018.12.25)より)
旧仙台藩領に属する地域には、「あづまかいどう」と呼ばれる道路と、道路にまつわる伝承が点々と残され、複数の近世地誌にも関連記事が登場する。…藩域南端の宮城県白石市から北端の岩手県奥州市まで、薄く広い分布が確認でき、その間ではある種の道路を「あづまかいどう」とする認識が共有されていた…
地域の歴史を語る材料として、自治体史や個人による検討、さらには地域おこしや生涯学習の題材ともなるなど、この道路への関心は比較的高い。だが、そこで語られている道路像を並べると、道路の誕生時期や性格、道筋などといった、基本的な情報に齟齬が生じる。…
道路の誕生時期には諸説あれ、「あづまかいどう」の名称を実際に文献資料で確認できるのは、管見の限りでは道路が機能していたとされる時代よりも遙か後、近世になってからである。興味深いことに、これは鎌倉時代の幹線道路とされる「かまくらかいどう」と同じである。…

事の実否はさておき、近世人たちは「あづまかいどう」を奥州街道の前身に当たる古道と見做していた。従ってその性格は奥州街道と同様、つまり陸奥国内の最重要幹線道路ということになるが、これに相当するものとして、古代には東山道、中世には奥大道の各道路があった。事実、「あづまかいどう」は、主に両者に関連づけられ、どちらかに軸足を置いた説明がなされてきた。…
ただし、誕生時期を古代に求めるのは一緒でも、東山道とは別の道路に擬する意見もある。陸奥国の太平洋岸一帯には「海道」と呼ばれる幹線道路が走っていた、弘仁2年(811)には陸奥国海道の十駅を廃止したという記録もある。これとの連続性を指摘するのである。…

…「あづまかいどう」とは、固有の時代の特定の道路ではなく、誕生した時代も、目的地も異なる複数の道路の集合体だった。… 様々な道路が「あづまかいどう」の名前の下に集約され、中央と結びつけられたのは、近世以降の出来事だった可能性が高い。自ずと道路を巡る言説には、近世人の中央への心象が投影されていると見做すべきで、当然、目的地や性格など、道路に関する基本的な情報は鵜呑みにできないのである。その意味では、この道路を使って古代や中世を論じてきた従来の研究は、新たな研究手法を探す必要がある。 
しかし、これは歴史資料としての「あづまかいどう」を否定するものではない。…見方を変えれば、道路を糸口にすることで、近世人の持つ地域認識や、古代・中世観の検討が可能となるのである。…

[補足]
(注1) 江刺郡志:岩手県教育会江刺郡部会編 大正14年(1925)発行
本書に稲瀬村の伝説として次のように記されている。
東街道 本郡内に東街道と称せらるゝ古道あり。…按ずるに之れ本郡内南北に通ずる唯一の大道にして、稲瀬の渡を渡り当時の駅路に合したるは疑うべからず。或は云う平泉時代発達したるものに非ざるかと。」
・「東街道」は「稲瀬の渡(北上川)を渡り当時の駅路に合したるは疑うべからず」とあるのに注目したい。

(注2) 山田康彦著「陸奥の古代交通路研究に関する二つの問題」(『歴史地理学紀要』第16巻、歴史地理学会 1974.4)
(注3) 岡 陽一郎:一関市博物館骨寺村荘園遺跡専門員、近著に「大道 鎌倉時代の幹線道路」(歴史文化ライブラリー 481、吉川弘文館 2019.3)」がある。

(2020.5.4掲/5.10改)

「あづま海道・再々考」への2件のフィードバック

  1. こんにちは、前沢在住の菊地と申します。私事ですが、現在YouTubeに動画投稿していまして。じろうの家 阿弖流爲の手の者として2月より活動しています。私には歴史的知見などないのですが、活動の舞台を生母にしております。今回の記事を拝見し、ますます興味が湧いてきました。地元ではモレ太鼓などのサークルなども在る事を知り、過去に滅ぼされたとは言え元気ですとアピールしたい!文字制限により終了。

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