「あづま海道」に惑う

(本稿は「タウンやさわ 第37号」(R3.2 矢沢観光開発協議会発行)に寄稿した原稿に若干の変更を加えたものです。)

あづま海道とは何か
「アズマカイドウ」という道がはるか昔に北上山地の西麓、東十二丁目の東側を通っていたということを、初めて聞いたのは6年前のことでした。
矢沢観光開発協議会の今は亡き佐藤建さんのお話では:-
・古代・中世の頃、北上山地の西麓を南北に縦貫する幹線道路があり、「アズマカイドウ」と呼ばれたが、後に廃れた。
・近年この古道の再発見が試みられており、北上市や奥州市ではルートの確定、道標の設置などが完了している。
・矢沢地区ではこれまで特別の取組みはなかったが、観光開発協議会の事業としてこれから取組もうとしている。

これを聞いた時の私の感想は、観光開発のための我田引水・牽強付会の類(たぐい)か… というもので、特に関心を持たずに終りました
しかし翌年になって、高木用水のことを調べているうちに、高木用水の取水口(臥牛)のわきに「あづま海道」の案内標識(上掲写真⇧)を見付け、これをきっかけに少し調べてみようと思ったのですが…
しかしこれが思いがけずの難物、迷路に迷い込んでしまいました。(注1)
観光開発協議会の活動は今も続いているものの、矢沢地区内のルートの発見(創造?)は未だできていないようです。

「あづま海道紀行」(注2)によれば:-
《「あづま海道」とは、奥州平泉に中尊寺を建立した藤原清衡が、陸奥の特産 馬・砂金・漆・鷲羽などを京の都に運んだと伝えられている道で、地元では「清衡古道」とも呼ばれている。》などとあります。

この「あづま海道」の復活に大きな影響を与えたのが佐島直三郎編「あづま海道-清衡道とその風土-」(注3) (以下「佐島本」と略記)と思われますが、本書に示されたあづま海道のルートは大略下図 のようなものです。

あづま海道想定ルート (右クリックで拡大表示できます)


パンフレットを見る
これまでに北上市と奥州市では「あづま海道」のパンフレット類数種が発行されました。以下にその表紙だけを掲げておきます。

①北上市
 (北上あづま海道歩く会 H26(2014).4発行)
 ルート:稲瀬町内門岡~国見山~大竹廃寺~臥牛

②奥州市
  (季刊胆沢ダム通信「ササラ」第33号 胆沢ダム地域づくり連絡会 H15(2003)?発行)
 ルート:西舘千手観音~えさし藤原の郷

③奥州市
 (水沢市生活環境課発行)
 ルート:鶴城~出羽神社
奥州市内の約9kmは「東北自然歩道 新・奥の細道」の「東街道を訪ねるみち」として認定・整備された。

④奥州市
 (母禮(もれ)をたたえる会 H25(2013).1.31発行)
 ルート:伝古戦場跡~経塚


矢沢地区のルート
佐島本に示された矢沢地区内のルートは:-
大竹(平安初期の廃寺跡、北上市更木) ― 竹原(東十二丁目) ― 大沢(東十二丁目) ― 高木(現高木団地の東側を通り) ― 安野 ― 胡四王山 ― 五大堂(石鳥谷町五大堂)
となっています。
ところが同じ佐島氏が胆江新聞に連載した「あづま海道の要点」(H6.10.6~9)の中には:-
大竹廃寺 ― 臥牛寺(北上市臥牛) ― 岩根神社(高松) ―-胡四王神社(医王山胡四王寺) ― 五大堂(光勝寺)
とあります。

いずれにしても、これらのルートを「あづま海道」とした根拠、理由は述べられていません。また佐島本に、北上市の鴻巣までは地図上にルートが示されているのですが、それより北は地名の列挙のみで地図はありません。

あづま海道の謎
佐島本の序文「『あづま海道』刊行によせる」の中で高橋富雄氏(注4) は:-
《「あづま海道」。これは「まぼろしの海道」です。どういうものであったか、どうなったか、どうなっているか、皆目見当がつきませんで「ナゾ」のままになってきました。
「あづま海道」はそのように「まぼろしの道」、「ナゾの道」なのですが、それにもかかわらず(というより、むしろそれゆえに、…)、わたしたちに、歴史に対する限りない「夢」をはぐくんできた「ロマンの道」です。…》
と記しています。

また「あづま海道について」(平成28年度あづま海道連絡協議会講演会資料、講師 相原康二)(注5) の中には:-
《あずまかいどうの起源 ― 現状では不明というほかない。
…佐島直三郎氏は平成5年に『あづま海道-清衡道とその風土-』を責任編集され、(江刺)郡志(注6 )と同様の奥州藤原氏時代説に立ち、「清衡道」という呼称をもちいている。ただし、いまひとつ有力な根拠に欠ける。》
とも記されています。

平泉から紫波東部に至るとされる「あずま海道」にはこのように謎が多いのですが、とりわけ稗貫、紫波2郡内のルートは全くの暗中模索のようです。佐島本自体の中に次のようにあります。
《…立花毘沙門堂脇(北上市立花)へと進む。
ここまでは、あづま海道の跡を認めることが出来るが、それ以北については、古文書並びに言い伝えなどにより、点と点を結び往古の道を模索するのみ。》

改めて、あづま海道とは何だったか
「あづま海道」の岩手県内ルートについて、佐島本でその根拠について直接言及しているところを摘出してみたのですが、次の3ヶ所のみのようです。

①《あづま海道は北上川東部、主として江刺地方の、北上山地から北上川低地に下る西縁台地を南北に走る道路とみられて来た処である。…
「あづま海道」と呼ばれる餅田地内の道路、…》(p.12)

②《「江刺郡の内 餅田村、土谷村、石山村、右三ヶ村に往古東海道と申す往還之有り、只今は人馬共に通用之無く 荒道に相成り併せて、…」(『江刺市史』第五巻資料篇より)》(p.13)

③《江刺郡志にあづま海道に関係ある記述がある…話は近世の事である。
 天和3年(1683) 9月 伊達綱村(注) 領内巡見として東磐井猿沢より岩谷堂に至る途次、東街道は源義経衣川館より夷地に下りし古道なりしを聴召(きこしめ)し、…
(注) 伊達綱村 仙台藩第4代藩主(1659~1703)》(p.18)

なお、「花巻市史」では「歴史の道篇」(注7) の「第5章 往古の道」に「二、安倍みち(東海道(あずまかいどう))」がありますが、《奥州街道以前の古い道を「あずまかいどう」と称しているが、その実態は明らかでない。》と記すのみです。言うまでもなくこれは河西のことであり、河東への言及はありません。

「あづま海道」に関する史料については、他文献でも種々紹介されていますが、一関博物館の岡陽一郎氏(注8) によれば、
《道路の誕生時期には諸説あれ、「あづまかいどう」の名称を実際に文献資料で確認できるのは、…道路が機能していたとされる時代よりも遙か後、近世になってからである。》
とし、また
《人々は自分の住む土地に、中央(都)との回路の記憶を見出し、時には創作や再解釈を施し、自己認識と誇りの拠り所とした。「あづまかいどう」は、まさにそうした渦中の産物であり、来歴も道筋もさまざまな古道群は、この名前と、京都に向かう道路としての歴史や物語を与えられ、地域の評価を高める材料となった。…「あづまかいどう」は明らかに中央から見たときの名称である点、より中央側のまなざしを意識しているといえる。》

言うまでもないことですが、「あづま海道」の問題は、「AからBに通ずる道があったか」ではなく、「AからBに通ずる道を「あづま海道」と称したか」です。

空想の「あづま海道」
私がこれまでに見聞きしたアレコレを頭の中でかき回してみると、こんなイメージが浮かんできました。

江 刺
あづま海道は、平泉付近で奥の大道(注9) から東に分かれ北上川を渡り、北進して江刺を縦断し、江刺の北端で西に向きを変え稲瀬の渡しで再び北上川を越えて、奥の大道に合する。いわば奥の大道の脇往還とでもいう存在だったのではないでしょうか。
ではその存在意義は?と言えば、「江刺氏の京への道」。
江刺氏の出自については諸説あるようで、一説に鎌倉時代に奥州惣奉行・葛西氏の一族が岩谷堂に入り、江刺郡総領職として江刺氏を称したとのこと。その後紆余曲折を経て、秀吉の奥州仕置の結果、江刺を去った。「あづま海道」はこの江刺氏と共にあり、そして共に廃れたのではないでしょうか。

稗 貫
「あづま海道」が江刺の北端から奥の大道に合したとしても、矢沢を通っていた「あづま海道」の存在を否定する必要はありません。「あづま海道」は《来歴も道筋もさまざまな古道群》であると岡氏は言っています。
矢沢地区の「あづま海道」、この道の南は更木方面として、北はどこに向かうのか…やはり紫波(河東ではなく河西の)だろうと思うのですが、それでは途中に何があるか? 私が注目したいのは大迫(おおはさま)です。

大迫は、近世になってからの事ですが、盛岡~遠野を結ぶ要路の中間地点として栄えました。また稗貫川は砂金の産地であり、当地は早池峰山への信仰の道の途上にあります。そして近代になると稗貫郡河東で唯一の「町」になった所です。
昭和60年前後に刊行された「大迫町史」全5巻の中に「交通編」と題する1巻(708ページ)があります。道路の事がかなり詳しく記されていますので、これを精読・精査すれば、われらが「あづま海道」に纏(まつ)わる何かを発見できるかもしれません。???

以上、全くの門外漢である一個人の空想でした。
矢沢地区内で「あづま海道」に連なる何か、古文書とか石碑とか口碑とか、が近い将来に発見されることを祈念しつつ、筆をおきます。

[補足]
(注1)
これまでに投稿した「あづま海道」関係記事
 ・あづま海道とは何か (2015.9)
 ・あづま海道・再考 (2015.9)
 ・あづま海道・再々考 (2020.5)
 ・「あづま海道」を読む (2020.7)
(注2) あづま海道紀行:H15.3 えさし郷土文化館発行
(注3) あづま海道-清衡道とその風土-:佐島直三郎編、H5.9 あづま海道歩くの会発行
・佐島直三郎 (さじま なおさぶろう):1920年 江刺市愛宕(おだき)に生まれる。復員後、1948年に岩手県中等教員となり、その後県の文化課に転属、県の歴史や風俗、文化の研究に尽力。定年退職後は、古文書や郷土史の研究などで幅広く活躍。
(注4) 高橋富雄:1921-2013、北上市生れ、日本史学者、東北大名誉教授、盛岡大学長等を歴任。
(注5) 相原康二:えさし郷土文化館館長
(注6) 江刺郡志:岩手県郷土誌叢刊、岩手県教育会江刺郡部会編、1987.8 臨川書店発行
(注7) 花巻市史 「歴史の道篇」:熊谷章一・他著、S56.6 花巻市教委発行。
「第5章 往古の道」のみが熊谷先生の執筆で、先生の絶筆となった。
(注8) 岡 陽一郎:一関市博物館骨寺村荘園遺跡専門員、近著に「大道 鎌倉時代の幹線道路」(歴史文化ライブラリー 481、吉川弘文館 2019.3)」がある。
(注9) 奥大道(おくのたいどう):古代の陸奥国の幹線的官道は,下野国から白河関をこえて陸奥国に入り,陸奥国を縦に貫く道である(東山道)。そのコースは,中世にも〈奥大道〉などと呼ばれて,基本的に変わることなく受けつがれた。

(2020.9原稿記 21.2.20掲)

「「あづま海道」に惑う」への2件のフィードバック

  1. 「あづま海道」は幻の道ではありません。私ども「(宮城県)利府町郷土史会」の菅原伸一会長が2014年に刊行した『蝦夷と「なこその関」』という著書に詳しく書いています。
    簡単に述べれば、8世紀前半ころに多賀城整備に伴って常陸から陸奥までの海岸線の官道(現国道6号線に該当)を整備したらしく、この道はいわゆる「東海道」の延長でしたが、五機七道の区割りとしての「東海道」ではない場所を通る道なので区別する意味で「東(あづま)海道」と呼ばれ、「東山道」に先駆けて多賀城まで延伸され、さらに北まで延伸されたものが足跡となって岩手県に残っているものと考えられます。
    なお、私は古代の道を研究している立場ではないので、情報提供のみとします。
    詳しくは、菅原氏の著書をご覧ください。

    1. 当ブログにご注目頂き、有難うございます。
      本稿は、かつて奥州に「あづま海道」があったことに疑問を呈しているわけではありません。
      私の問題意識は、和賀・稗貫郡内の北上川東岸に近世以前に「あづま海道」と呼ばれた道があったか否かです。

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