私にとっての「宮沢賢治」

 私は賢治の崇拝者でも賢治作品の愛読者でもない。しかし幼少期から高校卒業までの間、賢治の里・花巻の近郊で過ごしたので、ある意味賢治は身近な存在ではあった。
 本稿はこのような賢治音痴による賢治にまつわる回想記である。

放送室と学芸会
 私は小学校の上級生の時、放送係の一員だった。職員室の隣に空き教室を利用した会議室があり、その一隅が放送室になっていた。そして放送機器の後の壁に宮沢賢治のこの写真(⇩)が掲げられてあった。この写真について何か聞いたり話した憶えは全くないが、何故か記憶に残っている。

 中学校に進んでからも「放送局」の一員になった。小学校でも中学校でもアナウンサーは楽しい役割だった。運動会ではプログラムの進行などをアナウンスするのだが、運動能力の全く劣る私にとって、これがなければ運動会は単なる苦痛だったろう。学芸会や文化祭には、舞台裏でスピーカーから聞こえてくる自分の声を聞きながら、あれこれアナウンスするのは気持ちの良いものだった。

小学校の学芸会のこと…
 学芸会のメインイベントは上級生の「劇」だったが、5年生の時は賢治原作の「風の又三郎」だった。主役の少年を演じたのが徳彦君。妬ましいとまではいかないまでも、羨ましく思ったように記憶している。自分の出番があったかどうか、記憶にない。
 6年生の時も賢治原作の「どんぐりと山猫」で、主役の少年は徳彦君。私は準主役(?)の山猫だった。

 5、6年の担任が栄一先生、農業高校卒の若い助教諭だった。当時地元出身の先生は苗字ではなく、名前で呼ばれていた。信夫先生とか篤子先生とかカツ子先生とか。古川、佐藤、押切など同姓の人が多かったせいか。

 私が通った小学校は1学年1学級で、私の同級生は44名。その中に「できる」と言われた子が3人いた。学芸会の劇で主役を演じた、女子に人気の徳彦君、背が高く卓球や陸上で活躍した健生君、そして私。いずれも父親は教師だった。
 徳彦君が亡くなって早10年が過ぎ、健生君も数年前に他界した。徳彦君の時は弔辞を読んだのだが、健生君の死を知ったのは亡くなってから数か月後のことだった。
 そろそろ私にもその時期が近づいているのだろうか。

 以上、半世紀以上も前の話である。思い違いがあるかもしれない。

   故郷(ふるさと)に夢は枯野をかけ廻る
 

中学校の卒業アルバムから
左:学校委員会(正面中央が健生君、その右に徳彦君、一人置おいて筆者)
右:放送局

賢治全集
 私が高校に入った頃のことだったと思うのだが、父が「宮沢賢治全集」全11巻を買い揃えた。自分で読むつもりだったのか、子供たちに読ませようと思ったのか、それとも仕事上か何かのお付き合いで買うことになったのかは知らない。父に「読め」と言われた記憶もない。

「宮沢賢治全集」(全11巻)
装幀 高村光太郎  著作権者 宮沢清六
昭和32年 筑摩書房発行 1巻 420円

 この全集をそれ程熱心に読んだ記憶はないのだが、何か気になるコトがあるたびにあちこち拾い読みはしてきたように思う。

 最近になって実家の土蔵を整理していると、こんなもの⇩が見付かった。こちらは父が孫のために入手したものか…?

「新版 宮沢賢治童話全集」 (全12巻)
1978-79 岩崎書店発行

雁の童子
 私は50才頃からプライベートな海外旅行をするようになった。年1~2度、20年近く続いただろうか。しかしパリもロンドンもニューヨークにも行ったことがない。
 最初に行ったのはアラビア半島南西端の北イエメン(現在のイエメン共和国、当時は南北に分断されていた)、仕事で数ヶ月滞在したことのあるサウジアラビアの南隣で、シバの女王の国ということで興味を持ったから、と記憶している。

 旅の楽しみ方は人様々である。感受性豊かでコミュニケーション能力の高い人なら先入観など一切持たずに現地に飛び込み、現地で直に様々なことを感じ、知ることができるだろう。しかし私にはその両方ともに欠けているので、事前にあれこれ調べてみる方である。またこれはこれで、現地で味わう楽しみとは別の楽しみがある。

 私の訪問先は中央アジア方面が多かった。カシュガルをはじめとするかつて「西域」と呼ばれ、現在では「中華人民共和国新疆ウイグル自治区」とされる地域など…
 そしてここでも「宮沢賢治」に出合い、好奇心を刺激された。そこで「賢治と西域」探求の基本テキストとして選んだのが金子民雄著「宮沢賢治と西域幻想」だった。今となっては何が書かれていたかほとんど憶えていないが、僅かに表紙カバーにある「有翼の天使像」の写真と「雁の童子」という童話のタイトルのみが頭の片隅に残っている。

 今同書で確認してみると「雁の童子」について、《西域の沙漠の中から発掘された壁画に描かれていた人物が、童話の中に登場するのは、賢治が「西域異聞三部作」と呼んだ中の、とくに「インドラの網」と「雁の童子」であった。ただ「マグノリアの木」の中にも…》などとある。

 賢治と西域について私が一番不思議に思ったのは、何故賢治はこんなに中央アジア(に限らないが)に詳しかったのか? という事だった。彼が活動したのは大正後期から昭和初期まで、今から100年ほど前である。しかも情報の中心・東京から遠く離れた岩手で、インターネットも新幹線もない時代に。これについて考察すると長くなるので、本稿では触れない。

賢治記念館とイーハトーブ館
 「宮沢賢治記念館」を少し南に下ったところに、同じ花巻市の施設である「宮沢賢治イーハトーブ館」がある。記念館の方は入場料が要るが、イーハトーブ館は無料。1階にはこぢんまりした展示場、舞台付きのホールの外、賢治関係の書籍も置いてある売店と喫茶コーナーがある。2階には図書室と講義室。

私は随分長い間、実家に帰るたびに一度はイーハトーブ館の喫茶コーナーでコーヒーを飲んでいた。座席は硬くて、あまり座り心地は良くないが… 年に一度か二度替わる展示物を眺めたり、何となく気に入っていたお姉さんの入れるコーヒーを飲んだり… しかしそのうちお姉さんの姿が見えなくなり、そのためかどうか分からないが、コーヒーの味が薄くなってしまった。私は薄いコーヒーが苦手だ。
 ホールで映画を見たり、講演を聞いたり、図書室で資料を調べたりしたこともある。

記念館の方は有料なので、見学したことはあったが、あまり訪ねることはしなかった。しかしある時に玄関ホールの奥にある広い喫茶スペースには入場料を払わなくても行けることに気付いた(コーヒーはもちろん有料)。それからはイーハトーブ館よりもこちらを利用することが多くなった。こちらの喫茶スペースは座席も柔らかく、西側全面が素通しのガラスで、気持ちが良い。特に新緑の頃の眺めが気に入っていた。
しかしこちらも最近コーヒーが薄くなったように思う。あるいは自分の味覚の変化(鈍化・老化)か?

記念館の登り口に「なめとこ山」という蕎麦屋があり、こちらも随分前から帰省の度に通っている。「なめとこ山」? 前述の「宮沢賢治童話全集」に「なめとこ山のくま」と題する1冊があったが、Wikipediaを引いてみると…

 《ナメトコ山(ナメトコやま)は、岩手県花巻市の西方、岩手郡雫石町との境にある奥羽山脈に属する標高860mの山である。…北上川水系支流豊沢川(豊沢ダム)の上流部に位置する。
宮沢賢治の『なめとこ山の熊』に描かれる「なめとこ山」をめぐって調査が進められた結果、明治初期の「岩手県管轄地誌」に「那米床山」「ナメトコ山」という記述があることがわかり、同山が実在のもので位置が特定されたため、宮沢賢治の生誕100周年である1996年を機に国土地理院が2万5千分1地形図「須賀倉山(秋田)」に山の名を記した。》とあり、また

 《「なめとこ山の熊」(なめとこやまのくま)は、宮沢賢治が執筆した童話。…
賢治が職業猟師をどう見つめていたかが書き綴られ、資本主義経済における搾取性にも言及した点でも貴重な作品である。》だって。

葛丸川
 私の母は父の死後、自宅で独居生活を送っていたが、平成26年夏に一人暮らしが難しくなり、石鳥谷のサービス付き高齢者向け住宅に入居した。そして2年半後に94歳で亡くなった。

 私は月に一度程度帰省していたのだが、母が石鳥谷に移ってからは、帰省の度に東十二丁目の実家と石鳥谷を何度も往復するようになった。東十二丁目から石鳥谷まで車で通うと、北上川のほかに小さい川を何本か渡る。その中で大きな標識があったせいもあるが、何故か「葛丸川」に関心が向いた。暇な時にこの川沿いを西に遡ってみようなどと思い、例によってまずあれこれ調べてみると…。

 やはり賢治が出てきた。しかし賢治には今更驚かなかったが、あの「宮沢賢治と西域幻想」の著者、金子民雄に会えたのは意外だった。金子民雄の母は石鳥谷大瀬川の出身だそうで、子供の頃母に連れられて度々石鳥谷に来ていたようである。ここいら辺の事情が花巻市のホームページに載っていたはずなのだが、今はリンクが切れていてアクセスできない。大分前にアップしたこちらの記事 [葛丸川] をご覧頂きたい。
 葛丸川は地元では結構知られた紅葉などの観光スポットの様である。

経埋(うず)むべき山
 数ヶ月前から高松寺跡など高松の山にまつわるあれこれを調べ出したのだが、ここでもやはり賢治に出会った。詳しくは [旧矢沢村の「経埋ムベキ山」 3山] をご参照あれ。

 私にとって「宮沢賢治」は苦手な存在、近寄りがたい存在であったように思う。あの陰気で神経質そうな肖像写真(⇧)を見るにつけ、そう思ってしまう。しかし今回これまでの賢治にまつわるあれこれを思い出してみて、随分長い付き合いだったなあ…身近な存在だったなあ…とも感じた。小学校の放送室に掲げられていた賢治の写真を見てからかれこれ70年! 私は賢治からどんな影響を受けて今の自分があるのだろうか?

(2020.12.6 掲/12.30改)