そして朝鮮系の人々

前々回にツングース系ナナイ人、前回は台湾人について書いたので、今回はついでにと言っては何だが、朝鮮系の人々を取り上げてみようと思う。
ここでまず難しいのが「朝鮮系の人々」を何と呼ぶか?素直に考えれば「朝鮮人」なのだが、私には何か憚られるものがある。今の若い人にはそんなことはないのかもしれないが、戦後育ちの私には「朝鮮人」という用語には何かしらの差別感・偏見が染みついているように感じる。そんな訳で本稿では引用する場合を除き「朝鮮人」ではなく「朝鮮系の人々」にしようと思う。

1959年、在日朝鮮人帰還事業
私は高校卒業までを花巻のザイゴ(在郷)で過ごしたが、身の回りで朝鮮系の人と接することも聞くこともなく、あるとすれば新聞・ラジオからぐらいのものだったと思う。そのたった一つの例外が高校での思い出。

地元の高校に入学したのが昭和32年(1957)。1学年普通科4クラス、商業科1クラスだったが、女子の生徒が少ないため、普通科4クラスの内2クラスが男子のみ、2クラスが男女共学だった。私は何故か3年間男子クラス。

共学クラスの中に髪を三つ編みのお下げにした女子がいた。顔は丸いというか角ばっている感じで、色黒だったように記憶している。特に親しくしていたわけではないが、何故か記憶に残っている。ハキハキした理知的な顔立ちの人だったように思う。
彼女の姿が途中で学校から消えて、後に北朝鮮に帰った(? 行った)ことを知った。彼女自身が北朝鮮生れだったかどうかは知らない。
60年以上も前の出来事である。思い違いがあるかもしれない。
彼女の名前も覚えていなし、確かめようにも卒業アルバムに彼女の姿はない。
北朝鮮に渡った彼女にどんな人生が待っていたのか…知る由もなし。

在日朝鮮人の帰還事業(注1)  1959年12月から1984年にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住のこと。
計93,340人が北朝鮮へ渡航し、そのうち少なくとも6,839人は日本人妻や被保護者といった日本国籍保持者だったという。

1984年、サウジアラビア王国リヤドで
私は1984年の1月から3月まで、サウジアラビアの首都リヤドの工事現場に出張した。仕事は、サウジと日本の合弁企業であるサウジ・ジャパン・コンストラクション・カンパニー(SJCC)がリヤドの郊外で施工中の「外交官団地造園工事(Riyadh Diplomatic Quarter Landscape Project)」のプロジェクト・マネジメント・システムの運用支援(もっともらしく言えば)だった。「造園工事」となっているが、日本の感覚で言えば大規模宅地造成の仕上げ工事みたいなものだったように記憶している。

SJCCの本社事務所はリヤド市内に、現場は郊外にあり、両方の事務所を行ったり来たりして執務していた。本社事務所には「Apple Lisa」というオフィス向け16ビットパーソナルコンピュータがあったが、Lisaとうのはスティーブ・ジョブズの娘(?)の名前だったとか。
そしてどちらの事務所でだったかは定かでないが、一人の韓国人営業マンと顔見知りになった。何を売り込みに来ていたかは憶えていない。40年近く前のことだが、特別親しくなったわけでもないのに、何故か彼のことが記憶に残っている。

現地では珍しい、日本語で話せる外国人だったからか…
私がその時受けた印象は、多分… ただ一人孤立無援で頑張っている一匹狼!
何故そう思ったか? 当時SJCCには数人の日本人スタッフがいたし、親方日の丸というか、日本人にはどこか「日本国」を頼りにしているところがあるように思えるのだが、彼は独立自尊、自国を全く当てにしていないように見えた。
現場で働いている技術者や作業員にはタイ人やパキスタン人が多かったが、当然彼らは「団体」で仕事をし暮らしていたはずだ。

1996年、ウズベキスタン共和国タシケントで
1996年4月末のこと、「中央アジア・シルクロードの旅」と銘打った10日間のパック旅行に参加して、ウズベキスタンに出かけた。何故か行きも帰りもパキスタンのカラチ経由だった。一行、ガイドを含め14名。

当時のウズベキスタンで一番印象に残ったのが、ロシアに捨てられた国の悲惨さ、惨めさ。国の表玄関であるタシケント国際空港のトイレの汚れ具合は凄まじいものだった。
ソビエト連邦は5年前の1991年に崩壊。

似顔絵

タシケントには朝鮮系の人々が多く住んでおり、街頭で似顔絵を描いている人も少なくない、と当時聞いたように思うのだが、本稿を書くに当って「タシケントの朝鮮系似顔絵描き」をネットで調べてみても、情報を得られなかった。
しかし私の手元にはこんな自分の似顔絵⇨が残っている。
署名がハングルで書かれているので、描き手は朝鮮系の人に違いない。

中央アジアに強制移住させられた朝鮮人(注2)  1860年代、帝政ロシアは、住む人のほとんどいない極東の沿海地域を入植地として開放し、極貧状態にあった朝鮮半島北部の農民たちの移住を積極的に受け入れた。
移住者たちは、祖国が日本の侵略に苦しめられ、1910年には同国に併合される一方で、ひっそりと繁栄を果たしていた。しかし1937年、ソビエトと日本の国境紛争が悪化すると、スターリンは朝鮮人が日本のスパイとなることを恐れて、彼らを極東からソ連内のカザフスタン、ウズベキスタンへと強制的に移住させ、そこで集団農場を営ませることを決めた。
幾万もの朝鮮人(注3)が、ある日突然、荷物をまとめるよう命じられ、窓のない家畜輸送列車に押し込められた。シベリアの厳しい冬に約6,500キロを移動する旅は過酷なものだった。土地を追われた人々はやがて、約束された建材も現金の援助も、決してやってこないことを悟った。昔からずっと米を作って暮らしてきた農民たちにとっては、中央アジアの乾燥した土地や遊牧の文化に順応することも容易ではなかった。

2012年、新疆ウイグル自治区チャプチャル・シベ自治県
前項で中央アジアに強制移住させられた朝鮮系の人々のことを書いたが、昔清朝乾隆帝の時代(18世紀中葉)に、満州から新疆の西縁、ロシアとの国境地帯に多くの兵士とその家族が移されたことを思い出した。
あれも朝鮮系の人々ではなかったか?…調べてみるととんだ思い違い!シボ族だった。シベ族とも言い、中国のツングース系少数民族の一つ。(注4)

2012年の旅は「天山北路・ステップルートを行く」。主な見どころはバインブルク草原とサイラム・ノール(湖)だったが、途中シボ族の居住地域をバスで通過することになっていた。名馬の産地として知られる昭蘇から北上して伊寧(イーニン、ウイグル語ではグルジャ)までの途中、イリ川の手前のはず。それらしきものはないかと注意して車窓から外を眺めていたのだが、何も分からぬままにイリ川を渡ってしまった。

今、李相哲教授
私は数年前に紙の新聞をとるのを止め、電子版を購読しているのだが、最近はこちらもあまり読まなくなってしまった。
去年あたりから私のニュース・ソースはほとんどがYouTubeなどのネット・メディアである。そのYouTubeで普段良く視聴する論客が数名おり、その一人が李相哲教授である。

先生について私が気に入っていることの一つがその容貌。田舎の野山を元気に走り回っていた腕白少年が、そのまま大人になったような顔立ちに、私には見える。もっとも若いころの写真では結構美男子風にも見えるが!!
ネット上では韓国に関して、反韓・嫌韓的なコンテンツが目立つ今日この頃、先生からは冷静で丁寧な解説を聞くことができる。

李相哲教授の略歴(注5)
1959年9月、中国東北地方・黒竜江省に生まれる
  両親は朝鮮半島慶尚道出身で、1930年代に中国に移民していた
  朝鮮系中国人としては2世(中国では「朝鮮族」という)にあたる
1982年7月、北京・中央民族学院(現・中央民族大学)を卒業
  後、中国共産党機関紙黒龍江日報(ハルビン、日刊紙)記者となる
1987年9月、留学のため来日
1995年3月、上智大学文学研究科新聞学専攻にて博士(新聞学)学位取得
  後、上智大学国際関係研究所客員研究員となる
1998年、 日本国籍を取得
1998年4月、龍谷大学社会学部助教授
2005年4月、同大社会学部教授となる

朝鮮族2世として旧・満州に生れ、新聞記者をしていた28才の青年が単身日本に渡り、18年後には日本の大学の教授になった。その間先生にはどんな試練と幸運があったのだろうか? …については[話の肖像画:龍谷大学教授・李相哲]に詳しい。

先生の回顧談を読んで気になったことが一つある。それはご両親のこと。
ご両親が南朝鮮から旧・満州の北東部に移住したのが1930年代。この時代に満州事変があり、日本から満蒙開拓団の移住が始まった。ご両親も満蒙開拓団の一員だったのか? このような時期に、日本統治下の朝鮮から混沌とした満州へ移住するにはどんな事情と覚悟があったのだろうか? そして戦後に何が待ち受けていたか?

[補足]
(注1) 在日朝鮮人帰還事業
:[Wikipedia]より
(注2) ⇨ [中央アジアに強制移住させられた朝鮮人の消えゆく文化 写真16点]より
(注3) 計17万2000人の朝鮮人が中央アジアへ追放された(カザフスタンへ9万5000人、ウズベキスタンへ7万7000人)という。 ⇨[旧ソ連朝鮮人の現状]より
(注4) シボ族の西遷 -瀋陽からイリへ- 私の別のブログ[テュルク&モンゴル]より
(注5) 李相哲:⇨ [Wikipedia]より

(2021.8.31掲)

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