「東十二丁目誌」(注1)の「第6章 むらの民俗」では、概ね近世後期から近代まで(太平洋戦争終戦まで)の東十二丁目の暮らしについて、民家、食生活、衣生活、婚礼と葬儀、年中行事、民間信仰の6節に分けて解説しています。
本稿ではこれを補完するものとして、昭和16年に編纂された「島郷土史」(注2)から「風俗」の章全体と「宗教」の章の抜粋を転載します。
《 風俗 昭和16年5月1日 佐藤末吉 撰録
総説
東十二丁目、全戸数234戸にして人口1,342人、内男647人・女695人なり。発電所(注3)を除く外は悉(ことご)く農兼業にして、貧富の差少なく生活難を感ずるもの少なし。一般民情としては質朴敦厚(とんこう)にして勤労を好み又経済的に細心の意を用い、子供時代より物売りをなし蓄積の風あり。青年は農閉期に殆ど出稼をなし其数毎年100人を越え、この収入実に1万円余なり。
勤労心に富めども一般に独創心に乏しく、耕作方法等に於いても旧来の陋習(ろうしゅう)を墨守し研究的態度極めて薄く、従って技能的進歩の傾向遅々たるものあり。是(これ)多少土地豊穣にして(米の)反当収入多く、割合に生活豊なる為哉(か)。
長幼の序ありて一家団欒し親族・故旧互に禍福慶弔を共にし、且(かつ)義を重んずる風あり。本家分家の交際も又円満なり。
衣食住
衣 常服は一般に綿布を用い、礼服は絹布紋付羽織を、男は袴を用い概して質素なり。稀に麻上下を着する風あり。子供は筒袖多く、女は元禄袖を用う。労働服は無尻股引、婦人はサルペ(もんぺ)と称えんものを用う。外出用としては一般に洋服を用うるもの多し。
食 常食は主として米麦を用い、粟稗之に次ぐ。副食物は菜類・魚肉多く、他の肉食は少なし。農繁期にありては小晝(こびる)と称して。小麦団子・焼餅・粥等を食す。祝祭日には米飯・餅・小豆飯等を食す。宴会の席には簡単な洋食も用いらる。
住 一般に萱葺(かやぶき)木造にして、棟の上に箱棟を造りたるもの多し。尚仙階の建築もあり、柾屋は主に商店・共同建築物に多し。倉庫は瓦屋多く、スレート葺も一ニあり。
建物密集せざる農村に於いては寒署の差少なき萱葺は相応しく、相互互助の目的を以て萱無尽の設(もうけ)あり。唯厩(うまや)と同居するは衛生上宜(よろ)しからず。各戸に於ける建物の主なるものは本屋・小屋・土蔵・便所・薪小屋等なり。住居の周囲には生垣を廻らす所あり。
冠婚葬祭
冠礼 近年全く廃されたり。
婚礼 一切の準備をなし、吉日を選び、当日は諸親・仲人・親類縁者の中より夫々(それぞれ)与えられた役目を帯びて、祝儀一切を交換して、酒宴を張る。式は殆ど略式に傾けり。婚礼は人生一度の盛儀にして、尚社会的発足を約束さるべき最も精神的緊張を要すべき儀式なるが故に、之を一面又経済と結び付けて、近来神前結婚式を挙ぐる者漸次多くなる傾向の見ゆるは意義あることなり。
葬儀 全戸仏式にして、棺に覆いをなし、恰(あたか)も輿(こし)の如きものとなし、而(しか)して座敷内に安置し、菩提寺住職の読経引導に及び、遺族・親類・故旧次々と焼香をなし、後左の如く行列をなし、菩提寺に参り、本堂の前に円形を作り三辺廻りつゝ、住職の読経を乞う。後棺を下ろして、再度住職等の引導あり、焼香ありて式を終る。
葬列順序(注4)
(1) 六灯燭(とうしょく) …六道能化(ろくどうのうげ)地蔵尊に供養す
(2) 弔旗 (3) 先燈炉
(4) 青龍 右 黄龍 左 …護法善神
(5) 生花 1対 (6) 造花 1対 (7) 赤龍 右 白龍 左
(8) 酒水 …5龍の口より吹き出し清浄水
(9) 生花 1本 (10) 前机 野香炉 (11) 灯燭 2本
(12) 湯 (13) 菓子 (14) 茶
(15) 四花 …印度・沙羅双樹を象(かたど)る
(16) 団子 …果実マンゴーの意
(17) 盛飯 (18) 松明(たいまつ)(鍬台) (19) 遺物
(20) 位牌 (21) 霊棺
(22) 縁の綱 (23) 天蓋 黒龍 頭守 (24) □
(25) 遺族 (26) 一般会葬者
武技
一般には行わざるも、近時の尚武思想につれて、青年団・在郷軍人間に於いて夫々指導者を仰ぎ技を練り、団体対抗競技を行う。而して柔道は奥田流、剣道は戸田流なり。
娯楽
当部落の娯楽は余り高尚ならざれども又野卑に陥らず、其の主なるものを挙ぐれば左の如し。
花カルタ 農閉期老人の間に行われたるも、近時次第に持つ遊ぶ者少なくなる傾向あり
相撲 青少年団員に於いて士気を鼓舞する意味を含めて行わる
大神楽 神社祭礼の余興として青年間に行わる
謡曲 一般に慶事の場合に之を唄う。青年に少なきは甚だ遺憾なり。喜多流最も多し
三味線 老人及び婦人に行わる
笛 古代音楽の一部として興ぜらる
芝居 神社祭礼等に余興として行わる
手踊 男女を問わず種々あり
舞踊 代表的なものに山伏神楽(かぐら)ありたるも今は舞う者なし。特殊的なものには神楽(しんがく)・剣舞・さんさ踊・田植踊・大黒舞・獅子踊等あり
登山・物見・巡拝
農閉祭日等を利用して智識の開発と精神の慰安の為に行う。男子は岩手山・早池峰山・最上三山・金華山・伊勢参宮等を団体をなして之を行い、女子は当国三十三番観世音・善光寺参りを生涯中の行事とす。而してこの崇敬精神を永く失わざる為、最上塔或は善光寺塔・観音塔と称して、毎年期日を定め春秋2回相寄り夫々の神仏を勧請して礼拝をなし、後酒宴を開き参詣当時を語り合う。又他村神社の崇拝講中等あり。その主なるものに胡四王神社講中・不動明王講中・古峰神社講中あり。之は毎年祭日に代表者を以て参詣し、御守札を請けてその都度講員に配るなり。
無尽講・頼母子講
無尽講は米・萱・金銭等を取扱うもの多く、掫取方法に依り講員相互の融通機関とす。
頼母子講は民間貯金の一方法にして、一定の期間内定額の金銭を出金し合い、満期に之を受取るなり。
祈祷・家相・運勢・姓名判断等
主に山伏間にて行われ、一般に迷信深く家人病気の時又は最上登山の時は宮籠(みやごもり)をなす風あり。
建築の場合等よく祈祷を乞うことあり。之れ其の間に迷信ありと雖(いえど)も一般に敬神の念深きに依るなり。》
《 宗教 昭和16年5月1日 市川源太郎 撰録 (抜粋)
総論
我が島部落の主なる宗教は神道及び仏教にして、基督(キリスト)教の信者も数十年前に一二ありたるも、今に至りて殆どなく、神道は大社教にして、仏教は曹洞宗・浄土真宗等なり。又日蓮宗も過去に於いて二三ありたるも今はなく、尚部落開発当時未だ寺なき当時よりの参り仏なるもの4軒ありて、現今に至るも尚旧10月2日を更(あらた)めて参拝者あり。
第1節 神道
概説
神道の信仰者も尠(すくな)きにあらざれ共、一般信者と云うは神仏二者の崇拝者にして純然たる信者と云うはなきも同然なり。此等の崇拝する教派は大社教派にして、布教に関しては過去に於いて春秋2期各戸祈祷に巡回なし、家内安全・五穀豊穣の祈願をなし、布教をはかりたることあり。神職は当部落になく、高木の羽黒別当の管理する所にして、武運長久等簡易なる行事あるときは元熊野神社の別当代拝することあり。…
神社
当部落には村社として熊野神社、及び神明社・八雲神社・天満宮・金刀比羅宮等あり。
村社 熊野神社 東十二丁目字熊野
祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)
社殿 竪1間、横5尺 拝殿 竪2間、横3間
境内地 340坪 境内諸社 梅ノ宮
財産 畑8畝歩
氏子数 280戸 …
神明社
祭神 大日女神(おおひるめのかみ)
境内地 479坪 境内諸社 住吉神社、山神宮
財産 水田 3反19歩、畑 1反5畝22歩、現金 200余円
信徒数 80人
祭日 旧9月16日 …
第2節 仏教
歓喜寺 (東十二丁目字外山)
本寺太田昌歓寺末寺、曹洞宗無底派
本尊 釈迦如来 …
本堂 竪7間半、横6間 庫裏 竪9間半、横6間
境内坪数 827坪
境内仏堂 観音堂、地蔵堂
所有地 水田、畑、山林、其の他
第3節 参り仏
往時より当部落に参り仏なるものあり。之当部落開拓当初開拓人の信仰の仏にして、当時未だ部落に寺院なく、為に死亡等の際は此の軸又本尊を借り受け、之を礼拝し又これを先立ちて、葬儀をなし済まし、後(のち)日を改めて(旧10月)参拝し各自の心身の安定を得。現今も尚旧家にありては之に参拝するを例とせり。尚部落に4軒あり。大沢仏、栗ノ木仏、酒屋仏、大道仏之なり。 …
酒屋仏 (白雲酒造)当主 佐藤 新
年代不詳なるも往時よりの伝来にして、仏身1寸2分の仏身にして3体仏なり。一時花巻にうつりたる事あるも、何彼(なにか)と不思議の事のみ起り、為に再び現在に戻したるなり。尚軸もありて三幅対(さんぷくつい)なり。五光には砂金を以て之を塗り、現在殆ど手を付けられざる如くになりあり。尚主人60才以上となりたる時、深夜に家族のみが集まり之が開帳をゆるされ、現在に至れるなり。
来拝者も宮ノ目、花巻、高木及び当部落の一部の参拝者ありて、仏日(旧10月12日)は50人位の参拝者を数う。 》
最後に当時の小学校の様子を知るよすがとして、「島小百年史」(注5)から「昭和13年頃の島分教場(ぶんきょうじょう)」と題する一節の前半部分を紹介します。
《 昭和13年頃の島分教場 古川安忠
私が八重畑尋常高等小学校山屋分校(注6)から矢沢尋常高等小学校に転任したのは、昭和13年の6月であった。時期でもない6月頃と、首をかしげられるかも知れないが、その頃の山屋分校というのは陸の孤島として有名、…県の学務課へ知人を介して猛運動をし、5月31日附で矢沢尋常高等小学校に転勤を命ぜられ、島分教場(注6)が欠員だつたので島に勤務することになつた。校長は伊藤梅吉氏であり、当時島分教場には阿部重寿訓導と佐藤マキ訓導、それに私と三人で、学年は4年生まで3学級編制、1学級は複式(注7)で、男の先生が交代で複式を持つようになっていた。
私が島分教場に赴任して、先ず第一に驚いたことは朝礼時の体操に用いるレコードも蓄音機もなく当番の先生が口で一、二、三、四と号令をかけながら体操していた。職員室兼応接室は中央玄関脇にあって、各担任の先生の古ぼけた机の他には応接用の卓子(テーブル)も何も無かった。そこで私が提案して、部落の有志を訪問して、蓄音機を寄附して貰うことになった。…》
[補足]
(注1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(注2) 「島郷土史」:昭和16年(1941)に東十二丁目の有志によって編纂された。編纂経緯などは「『島郷土史』の目指したもの」をご覧下さい。
(注3) 猿ヶ石発電所:昭和5年(1930)に運用を開始した。 ⇒「『東十二丁目誌』註解覚書:近代概観」の第16節
・この発電所は特定需要者への電力供給を目的として建設されたもので、東十二丁目へ電力を供給するためのものではなかった。
・花巻では大正元年(1912)に花巻電気㈱により電気の供給がはじまり、待望の電灯が灯ったとのこと。翌2年には矢沢村への供給も始まったようです。(注3a)
しかし東十二丁目にいつ頃電気が引かれ、どのように普及していったのか?は不詳。
(注3a) 「花北の歴史を学ぶ」(H30.2.28 花北地区コミュニティ協議会発行)に依る。
(注4) 葬列順序:「東十二丁目誌」には次のように記されています。
(1) (右) 高張 (左) 高張 (2) 五龍 (3) (右) 仏(青) (左) 法(黄)
(4) 造花 (5) (右) 僧(赤) (左) 宝(白) (6) 生花
(7) 野花 (8) 紙花 (9) 団子
(10) 果物 (11) 菓子 (12) 湯茶
(13) 灯燭 (14) 鍬 (15) 香炉
(16) 盛飯 (17) 遺物 (18) 龕(がん)
(19) 地守(黒龍) (20) 押喪
(注5) 「島小百年史」:島区民会編集、S48.11.3 同会発行
(注6) 分校と分教場:辞書には例えば「分教場:辺地の小・中学校などで、本校のほかに設けられた教場。現在は分校という。」とか「分教場:もと、小・中学校などの分校の中で、特に小規模のものの称。」とあります。
・安忠先生は何故に「山屋分校」と言い「島分教場」と言ったのでしょうか? 島の学校が特に小規模だったとは思えないのですが。夫々に正式名称であったということか。
(注7) 複式学級:2つ以上の学年をひとつにした学級(クラス)のこと
(2019.7.10掲/7.11改)