「東十二丁目誌」註解
私が「「東十二丁目誌」註解」の執筆を思い立ったのが4年前。そしてその下書きのつもりで「「東十二丁目誌」註解覚書」を本ブログに29回にわたって掲載してきました。最終回は昨年末の「現代概観」で、それまでの例に従えばこの後各論に進むのですが、現代については概観だけに止(とど)めることにしました。
今年はこの29稿の「覚書」を基に1冊のPDF版「「東十二丁目誌」註解」を纏めるつもりです。またこれまでに集まった資料の類を整理しておこうと思っています。
老いるということ-母の場合-
このブログ「人そして川」の次のメインテーマをどうするか? あれこれ考えて思い至ったのが「老いるということ-母の場合-」…
10年前に父が亡くなってから、母は一人暮らしを続けていたのですが、その母が亡くなったのが3年前。満94歳5月でした。
空家になった実家を片付けていて気になったのが、母が残した日記やノート等に書かれたあれこれ。チラシ等の裏に書かれたメモや俳句など…
整理して纏めてみようかと思うのですが、難しいのがそれぞれの書かれた時期の特定。日付が書かれていないもの、また月日はあっても年が書かれていなものも多い。
それに俳句などでは自作なのか他人の句を書き写したものなのかが判然としない…
というような訳で、どうなるか分かりませんが、父の死から母の死まで7年間の母の記録を辿ってみようと思っています。
音坂佐藤家年代記
「音坂年代記」を纏めてみようと思ったのが5年前の正月。音坂の近親者の主だった人達に声を掛けて「編集委員会」のようなものを立上げ…などと、大げさなことを考えたのですが、一人にそれとなく当ってみたところ興味を示してもらえませんでした。
そんなこともあってこちらは断念し、ここ数年は「東十二丁目誌」にかかずらってきたような次第です。 しかし「東十二丁目誌」を精査してみて、近世後期から昭和期にかけての音坂佐藤家の存在が改めて気になってきました。
音坂の当主は天保検地の時の肝入であり(2代・源之助)、幕末には百姓一揆の首謀者の一人として捕縛され(3代・源四郎)、明治になって村長や県会議員になり(6代・孝清)、昭和にも県会議員を務めました(7代・素一)。
また明治期の山地払下げにも深く関わったように思われます。
石崎先生が調査・収集した東十二丁目の古文書には押切家、古川家、大木家等多くの家に残された文書が含まれているのですが、音坂佐藤家のものは皆無です。
音坂の協力が得られなかったためか、火事か何かで失われ何も残っていなかったという事か?しかし音坂の今の母屋は明治年間に藤原金次郎によって建てられた建物なので、何か残っていそうに思われます。
できれば音坂に残っている文書類を探して、「音坂佐藤家年代記」を書いてみたいのですが、今のところ具体的には何も…
(2020.1.31 掲)
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