私の家の本家を「音坂(おとざか)」という。東十二丁目では、明治維新前から続いている有力旧家の一つと言えるだろう。我家はその音坂の隠居分家で、「隠居屋」と呼ばれていた。
本稿では音坂の現在から数えて2代前の当主、素一(そいち)と3代前の当主、孝清(こうせい)について記す。素一さんは私の祖母の弟である。
素一さんについて、まず「稗貫風土記 第1巻 人物篇」(八木英三編 昭和26年4月発行)の記事を転載する。大東亜戦争とその前後を足早に駆け抜けた一人の男の物語…
カテゴリー: 東十二丁目
東十二丁目の今:島バイパス開通
■島バイパス26日開通 花巻北上線 幅員広げ歩道新設
(岩手日日新聞Iwanichi Online (2020.3.23)より)
県が花巻市高木、東十二丁目地内で整備を進めている主要地方道花巻北上線「島バイパス」の延長2.98キロ区間は、26日午後2時に開通する。
幅員の狭い区間の解消と歩道を新設することで、安全で円滑な交通の確保が期待されている。
東十二丁目落穂拾い:塚根の首斬り場
東十二丁目の歓喜寺の裏山は東崗(ひがしおか)公園と呼ばれています。この山の中腹までは車で登ることができますが、そこに小さな駐車場があって、車は行き止まり。この駐車場の脇に5基の石碑(上掲写真)があります。
今回はこの石碑にまつわるお話です。
5基の石碑は「馬頭観世音」2基、「尾崎供養」1基、「大乗妙典日本廻国」2基です。そしてこれらは「東十二丁目誌」(注1)に「位置:東崗公園(旧塚根)」とあります。
飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-
今回も「新川佐藤家文書」(注1)の中にある文書を見ていきます。この文書は天保の大飢饉(天保3年(1832)~9年)さなかの天保5年正月に「川口町 小屋頭 万兵衛」から「東十二丁目村 御役所、老名(おとな)(注2)衆中」へ出された願書です。
全文は次のとおりです。 続きを読む 飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-
東十二丁目村 産物書上帳 享保二十年
「新川佐藤家文書」(注1)の中に「享保弐十年 東十弐丁目村 従公義御尋之産物相改書上申帳 卯 七月十八日」と「享保弐十年 従公義御尋之産物相改書上仕帳 東十二丁目村 卯 七月廿一日」と表紙に書かれた2冊の文書があります。
前者が享保20年(1735)当時の東十二丁目村知行地の産物(天然の動植物と鉱物、農作物を含む)を、後者は同村山林原野(藩直轄地)の産物を記録したものと思われます。(注2) 続きを読む 東十二丁目村 産物書上帳 享保二十年
照井氏と薬師館
(中村良幸著「中世城館調査報告一」(H28.3 花巻市文化財調査報告書第10集所収)より)
これまでに東十二丁目の照井氏と薬師館については何度か取上げてきました(注1)が、結局のところ「私にとって、「照井」は中世の東十二丁目、最大の謎です!!」ということで終っていました。ところが最近になって中村良幸氏(現・花巻市総合文化財センター所長)の「中世城館調査報告一」に私の疑問に応える見解が示されていることを知りましたので、ご紹介します。
一、花巻市東十二丁目「薬師館」 続きを読む 照井氏と薬師館