「東十二丁目誌」註解覚書:石碑アルバム

「東十二丁目誌」の著者・石崎直治先生が、東十二丁目の石碑を調査された際に撮影された写真のアルバムです。撮影時期は明記されていませんが、昭和60年前後(1980年代)と思われます。

写真
(右クリックで拡大表示できます。)

(連番) 碑名 (寸法 cm)
  建立時期 所在地

熊野神社境内
(1)松尾二柱大神 (238×90)
   明治26年(1893)4月8日
(2)稲荷大神 (50×45)
(3)馬頭観世音

続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:石碑アルバム

「東十二丁目誌」註解覚書: 両から円へ

明治4年(1871)5月に新貨条例が公布され、円・銭・厘を単位とする新貨幣制度が発足しました。しかしこの新制度が東十二丁目にどのように浸透していったのか、本誌(1)に特段の記述はありません。
幸い「花北の歴史を学ぶ」(2)という冊子に「貨幣の変化」と題する一文があり、ここいらへんの事情が書かれていましたので、以下に転載します。

この中に《島(東十二丁目)の附近では明治15年(1882)から円・銭・厘が使われていた》とありますが、疑問が残ります。文末の注記をご覧下さい。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書: 両から円へ

「東十二丁目誌」註解覚書:昭和10年代(1935-)の暮らし

「東十二丁目誌」(注1)の「第6章 むらの民俗」では、概ね近世後期から近代まで(太平洋戦争終戦まで)の東十二丁目の暮らしについて、民家、食生活、衣生活、婚礼と葬儀、年中行事、民間信仰の6節に分けて解説しています。
本稿ではこれを補完するものとして、昭和16年に編纂された「島郷土史」(注2)から「風俗」の章全体と「宗教」の章の抜粋を転載します。

《  風俗         昭和16年5月1日  佐藤末吉 撰録

総説
東十二丁目、全戸数234戸にして人口1,342人、内男647人・女695人なり。発電所(注3)を除く外は悉(ことご)く農兼業にして、貧富の差少なく生活難を感ずるもの少なし。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:昭和10年代(1935-)の暮らし

「東十二丁目誌」註解覚書:伊勢無尽講と伊勢参宮

「東十二丁目誌」の「第6章 村の民俗」/「第6節 民間信仰」の中で、「講」について述べられている。近世から近代そして現代まで続いた宗教上の講、8講について解説されているが、その一つが「伊勢講」である。

伊勢講(十六日講)  皇室の氏神である伊勢神宮に参拝するもので、神明社(注1)の講中では享保20年(1735)に伊勢無尽を開き、元文元年(1736)から2名づつの代参を行っており、大木家には詳細な道中記が残っている。》

しかし、石崎先生が作成した「東十二丁目古文書目録」には大木家文書として543件の文書が記されているが、その中に「道中記」に類する名称の文書は見当たらない。「伊勢無尽帳」などの伊勢無尽講関係の文書は多く載っているのだが…。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:伊勢無尽講と伊勢参宮

「東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (2)

3.明治中期以降の山
(1)国有林野の村方解放(注1)
ここでは国有林野の村方解放(下げ戻しや払下げ)について述べる。
明治5年に、土地の所有や売買が公認されたので、地租改正と併行して、土地の官私区分という大事業が展開された。まず民地の所有者を確定し、面積を測定し、等級を定めて税額を決定した。民有地以外は国有地とされた。
しかしこの官私区分には、簡単に判断できない多くの問題を包蔵していた。長い習慣からくるもので、土地は藩主のものというのが原則であったが、土地の管理・使用には多様な形態が併存していた。

続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (2)

「東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (1)

東十二丁目(655㌶(注1))の東側半分近くを占める第10地割(123㌶)、第18地割(92㌶)、第19地割(96㌶)、合わせて311㌶の大半を山林が占めている。この山々の標高は、第10地割の最高地点が192.2m、第18地割と第19地割では夫々233mと209.4mである。なお麓の歓喜寺の前庭が70.1m。
東十二丁目の住民はこれまでこの山々とどのように関わってきたか?

1) 本誌(注2)「第7章 近 代」/「第9節 山林等の調査」の「山の所有」の項に、《藩政時代の山林原野は初頃は知行地に含まれていたが、寛永7年(1630)からは藩の直轄支配となった。…その後宝暦8年(1758)には領内山林の総検地も行われ、御山書上帳が作られたという。》とある。
しかしこれは山林等の藩と藩士に関することがらであり、本誌には、近世の東十二丁目村村民が山林にどう関わっていたかの記述はない。

山林は、家畜(主に馬)の飼料・燃料・建築用資材(木材・屋根葺き用萱(かや))等の生産場所として、当時の村民にとって必要不可欠なものであったはずである。田畑の場合は、知行地であろうが蔵方分(藩直轄地)であろうが、個々の農家が特定の土地を耕作し、年貢を納めていた。山林はどうだったのか? 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (1)