「東十二丁目誌」註解覚書:なぜ「矢沢村」だったのか?

本誌(注1)「第7章 近 代」/「第12節 五ヶ村合併」の「町村制施行」の項に、
《明治22年(1889)4月町村制(という名称の法律)の実施によって、矢沢・高松・幸田・高木・東十二丁目の…5ヶ村が合併し、…新しい矢沢村の発足となり、…》
とあるが、これら5ヶ村が合併し、新村名が「矢沢村」とされたのは何故だったのか?

旧・矢沢村
旧・矢沢村の今
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「東十二丁目誌」註解覚書:平民氏称

本誌(注1)「第7章 近 代」の「第6節 平民氏称の公認」について。

本節では、明治になって平民が苗字を称することを公認されたことについて、「戸口調査も行われ、その書上げもなされたと思うが、それらの記録や、どのようにして一人一人の苗字が決定されたものであるかの文書は不明であり、詳細は知る由もない」とし、明治24年の東十二丁目の姓氏別戸数を掲げるのみです。

姓氏別戸数: 古川 42、押切 32、小田島 26、高橋 19、大木 12、照井 12、山口 10、多田 7、佐藤 6、市川 5、宮川 5、菅原 4、畑福 4、石崎 4、鴨沢 3、藤原 2、堀田 1、内堀 1   計 195戸 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:平民氏称

「東十二丁目誌」註解覚書:東十二丁目の大東亜戦争

「東十二丁目誌」(注1)の「第7章 近代」、「第17節 事変の発端から戦争終結まで」に「従軍者名簿から」と題して大東亜戦争(注2)の戦没者と生存帰還者の氏名等が掲げられています。
この「従軍者名簿」は、「島従軍記録調査の会」が昭和58年(1983)年9月に調査を開始し、59年7月に本編を、そして60年3月に追補編を完成したものです。
本書の著者・石崎先生がこの会の代表として、この調査を主導されました。
本稿では本書に掲載された従軍者名簿を分析してみます。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:東十二丁目の大東亜戦争

「東十二丁目誌」註解覚書:近代概観

「東十二丁目誌」(注1)の「第7章 近代」と「第8章 産業の発達」を、「東十二丁目」と「矢沢村」に留意しつつ概観してみる。第7章(全81ページ)は明治維新から太平洋戦争の終結までを扱っているが、第8章(全23ページ)は藩政時代から昭和までを対象にしている。

第7章 近  代
第1節 明治国家の確立から軍部支配の体制へ  (概説)
・本節では近代をごく短く要約している。
・「東十二丁目」や「矢沢村」への言及はない。

第2節 近代年表
・この年表には、慶応3年(1867)の大政奉還・王政復古から昭和20年(1945)の太平洋戦争終結までの45件が載っている。
・その内、東十二丁目に直接関係する事項は14件である。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:近代概観

カスリン・アイオン台風と瀬川の切替え -北山愛郎町長の仕事-

(北山郁子著「ドウリズムの政治 -北山愛郎的デモクラシー-」(2010.8.15 同人発行)より )

北山愛郎・花巻町長
(在任期間:1947~1952)

カスリン台風  町長(注1)就任から4ヵ月後の1947年9月15日、花巻の町はカスリン台風(注2)による水害に見舞われました。
日本の台風の災害史にその名をとどめるカスリン台風は、9月8日マリアナ諸島の東方洋上に発生し、…15日の午後6時頃伊豆半島の南方を通過し、房総半島をかすめて16日には三陸沖から北東に去って行きました。 続きを読む カスリン・アイオン台風と瀬川の切替え -北山愛郎町長の仕事-

飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-

今回も「新川佐藤家文書」(注1)の中にある文書を見ていきます。この文書は天保の大飢饉(天保3年(1832)~9年)さなかの天保5年正月に「川口町 小屋頭 万兵衛」から「東十二丁目村 御役所、老名(おとな)(注2)衆中」へ出された願書です。

全文は次のとおりです。 続きを読む 飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-