今回も「新川佐藤家文書」(注1)の中にある文書を見ていきます。この文書は天保の大飢饉(天保3年(1832)~9年)さなかの天保5年正月に「川口町 小屋頭 万兵衛」から「東十二丁目村 御役所、老名(おとな)(注2)衆中」へ出された願書です。
全文は次のとおりです。 続きを読む 飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-
今回も「新川佐藤家文書」(注1)の中にある文書を見ていきます。この文書は天保の大飢饉(天保3年(1832)~9年)さなかの天保5年正月に「川口町 小屋頭 万兵衛」から「東十二丁目村 御役所、老名(おとな)(注2)衆中」へ出された願書です。
全文は次のとおりです。 続きを読む 飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-
「新川佐藤家文書」(注1)の中に「享保弐十年 東十弐丁目村 従公義御尋之産物相改書上申帳 卯 七月十八日」と「享保弐十年 従公義御尋之産物相改書上仕帳 東十二丁目村 卯 七月廿一日」と表紙に書かれた2冊の文書があります。
前者が享保20年(1735)当時の東十二丁目村知行地の産物(天然の動植物と鉱物、農作物を含む)を、後者は同村山林原野(藩直轄地)の産物を記録したものと思われます。(注2) 続きを読む 東十二丁目村 産物書上帳 享保二十年
(中村良幸著「中世城館調査報告一」(H28.3 花巻市文化財調査報告書第10集所収)より)
これまでに東十二丁目の照井氏と薬師館については何度か取上げてきました(注1)が、結局のところ「私にとって、「照井」は中世の東十二丁目、最大の謎です!!」ということで終っていました。ところが最近になって中村良幸氏(現・花巻市総合文化財センター所長)の「中世城館調査報告一」に私の疑問に応える見解が示されていることを知りましたので、ご紹介します。
一、花巻市東十二丁目「薬師館」 続きを読む 照井氏と薬師館
本誌「第5章 近世」の「第9節 洪水の苦難」と「第14節 村境論」では「新川文書」(注1)がしばしば引用されています。本稿では「新川文書」の中の「普請願帳」から洪水後の普請願上2件を書き下し文(注2)で紹介します。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:北上川新川に苦しむ
「矢沢郷土誌」(A4版、357ページ)が平成29年12月1日付で出版されました。発行元は「矢沢観光開発協議会 / 矢沢地域振興会」と記されています。
入手方法、価格などをお知りになりたい方は矢沢振興センター(TEL/FAX 0198-29-5480)にお問い合わせ下さい。
岩手県花巻市矢沢地区は、花巻市の東西中央部南端に位置し、西側を北上川に接しています。新幹線新花巻駅、宮沢賢治記念館の所在地でもあります。 続きを読む 「矢沢郷土誌」が出版されました
本稿では、本誌「第5章 近世」の「第8節 東十二丁目と新川普請」と「第9節 洪水の苦難」について、「新川」と「助合」に注目して考察する。
(1) 「第8節 東十二丁目と新川普請」と「第9節 洪水の苦難」の要点
1) 奥州街道下欠込む
・花巻において新川というと、北上川の流れが花巻城本丸に突き当り崩れるため、正保(1644-1648)年中変流工事をはかったが水流れず、貞享(1684-1688)年中に至り第3回目の工事で小舟渡八幡社東へ流路の変更がなされ、漸く完成したことを指す。
・東十二丁目の新川はこれとは全く別のものである。参勤交代の行列が往来した松並木の街道(旧国道)では、北上川の流路が逐年西に転移したため、この街道下が欠込み、道路が西方に変曲した。この街道下の欠込みを止めるために新川が設けられたのである。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:新川普請と洪水の苦難